Constant Battles: Why We Fight原発問題でよくあるのが、原子力は近代合理主義の生んだ「反自然」の技術だ、という類の話だ。自称エコロジストは、近代以前の社会は「自然」に恵まれたエデンの園だったとでも思っているのだろうが、本書は考古学のフィールドワークにもとづいて、そういうロマンチックな幻想を打ち砕く。

遺跡から出てくる人骨を調べているうちに、著者は奇妙な特徴に気づく。かなり多くの骨に、人為的につけたと見られる傷があるのだ。それは男性に多く、著者の推定では成人男子の25%は殺されたと考えられる。遺跡からたくさん出てくる石器は、料理や木を削るのに使ったにしては多すぎる。その最大の用途は武器だったのだ。そして食人も普通に行なわれていた証拠がある。

社会生物学者はその原因を遺伝的な攻撃本能だというかもしれないが、著者はこれについては否定的だ。戦争は、人口が増えて食糧が稀少になるときは、合理的な行動として説明できるからだ。飢餓の恐怖は強烈な動機であり、他の個体群の人間は動物と同じだから、狩猟で動物を殺すことと他のグループの人間を殺すことの間に、それほど心理的な違いはなかったと思われる。

もちろん同じグループの中で殺し合ったら自滅してしまうので、戦争は小集団の間で行なわれた。農耕社会に移行する上では、こうした戦争を調停して大きな集団をつくることが重要だった。North-Wallis-Weingastもいうように、それが国家の本質的な役割である。国家が戦争の原因だと勘違いしている人が多いが、ドゥルーズ=ガタリも指摘したように、それは逆に戦争を抑圧する機械なのだ。

自然な状態の人類は平和で友好的だったのではなく、凶暴で攻撃的だった。それが緩和されたのは、農耕によって食糧が自給できるようになってからだが、それでもより多くの食糧を求めて戦争が繰り返された。成人男子の25%が殺されるという比率は、20世紀なかばまで変わっていない。ファーガソンなど多くの歴史家も指摘するように、西洋文明が栄えた最大の原因は、主権国家が戦争機械としてもっとも性能がよかったからである。

著者は、現代では食糧の総量としては絶対的な欠乏はなくなったので、戦争は合理的行動ではなくなったとのべているが、その分配は大きく片寄っており、民族的・宗教的な憎悪も絶えないので、戦争はなくならないだろう。「自然」のままに生活すれば平和になると信じているのは、飽食した先進国の自称エコロジストだけである。