震災で中断していた『イノベーションとは何か』(仮題)のドラフトをやっと書き上げた。この本の基本的な発想は、新古典派的な合理主義で理解できないイノベーションをどう分析するかという問題だが、その答が少しは見えてきたような気がする(研究メモなので、行動経済学に興味のない人は無視してください)。

行動経済学には理論がないという批判がよくあるが、カーネマンのノーベル賞講演を読むと、むしろ彼はサイモンの「限定合理性」の概念をどう理論化するかという問題意識で研究を始めたことがわかる。Bounded rationaityを限定合理性と訳すのは間違いで、本来は「制約された合理性」である。ここで合理性はコンピュータ的なアルゴリズムだとして、問題はその制約条件は何によって決まるのかということだ。

KAHNEMAN1

それを理解する仮説としてKahneman-Tverskyが設定したのは、上の図のようなtwo-system viewである。右側のシステム2は新古典派的な理性の世界だ。ゲーム理論やDSGEなど、バリエーションはいろいろあるが基本的にはもうコモディタイズした話題である。中央のシステム1がその制約条件を決める直観で、こっちのほうがはるかにむずかしい。問題を解くアルゴリズムはあるが問題を設定するアルゴリズムはないからだ。

日本が20世紀後半に驚異的な成長を遂げたのは、このシステム1の層を無視してシステム2の問題をひたすら解いてきたからだといえる。成長するために何が必要かというアジェンダはアメリカが設定してくれたので、日本はその条件つき最大化問題を解くという(あまり頭のいらない)仕事をうまくやるだけでよかった。技術移転と低賃金という条件があれば、アメリカを抜くことはそれほどむずかしくなかった。

いま日本が直面しているのは、システム1のレベルのアジェンダ設定である。これをKahnamen-Tverskyはheuristicsと呼んでいる。行動経済学のおもしろ入門書では、これをバイアスとかアノマリーと同義に使っているが、それはアジェンダを見つける発見の方法論なのだ。日本人はこのレベルの問題を「つぎつぎになりゆくいきほひ」でアドホックに決めてきたため、その方法論も意思決定をするリーダーもいない。

こうしたアジェンダ設定の方法論は意思決定理論でも最先端の問題で、GilboaBinmoreのような巨匠も「わからない」と結論している。最終的にはフレーム問題に逢着してしまうからだ。ではシステム1レベルのフレーミングはいい加減に行なわれるかといえば、その逆である。日本人にとっては「日本的」なフレーミング以外の選択の余地はほとんどない。日本でも西洋でも歴史的に継承されてきた「古層」には強い経路依存性があるからだ。

「日本人が非論理的だ」というのは間違いで、システム2レベルの論理性においては日本人のレベルは高い(非論理的な人に高性能な自動車や家電製品はつくれない)。システム1においても、現世的な利益を追求する点では合理的だ。ウェーバーも指摘したように、存在するかどうかもわからない「神の国」での救済を信じて現世を否定するユダヤ=キリスト教のほうが非合理的である。

しかしこのような千年王国主義は死を恐れないので戦争に強いが、日本のような平和主義は戦争に弱い。また長期的関係に依存したシステム1は情報を濃密に共有している人々の間でしか有効性がないが、神の存在以外の情報を共有する必要のない千年王国はどこの国にも輸出しやすい。

システム2レベルの問題は制度改革や教育で変えることができるが、システム1を変えるのは非常にむずかしい。しかし問題が論理ではなくアジェンダ設定だという認識が共有されれば、答は少しぐらい見えてくるかもしれない。少なくとも社会科学にとっては、もう「枯れた」システム2の問題よりはるかに多くの解くべきパズルがあると思う。