純粋理性批判〈1〉 (光文社古典新訳文庫)原発をめぐる議論が不毛な罵り合いになるのは、推進派と反対派が別の「宗教」で、最初から結論が決まっているからだ。人間が論理的に話し合えばわかるというのは大きな間違いで、人間は最初からもっている先入観を事実で確認するのだ。

カントは、こうした構造は認識に普遍的なものだと考え、本書を形而上学(素朴実在論)の批判として書いた。認識は存在の反映ではなく、認識が存在を作り出すのだ。このコペルニクス的転回の最初はヒュームだが、カントはそれによってニュートン力学の正当性を証明しようとした。

「物自体」は認識できないが、それがどういう状態で存在するかは人間の主観で決まる。ではその主観的な認識は何によって決まるのか。それを決める思考様式を彼は先験的カテゴリーと呼んだ。世界を理解するためにまず必要なのは、このカテゴリーを共有することである。

ニュートン力学が地球上のどこでも普遍的なのは、それを構成している空間・時間などのカテゴリーが普遍的だからだ。彼はその根拠を超越論的主観性と呼び、経験に先立つアプリオリなものと考えたが、これは認識の普遍性の根拠をカテゴリーの普遍性に置き換えただけで答になっていない。

形式は内容に先立つ

だが何かが共有されていることは事実だ。レヴィ=ストロースは「超越論的主観性なきカント主義」と自認し、トマス・クーンは自分の思想を「歴史的カント主義」と呼んだ。科学理論にとって重要なのは内容より形式(パラダイム)だという彼の主張は、最初は科学の客観性を否定するものとして反発を受けたが、今日では常識だ。

最近の脳科学では空間とか時間とか「私」という感覚などは、幼児期にかなり時間をかけて獲得されることがわかっている。経済学でも、この点はフレーミングとして知られるようになった。本源的な無限大の情報を処理することはできないので、思考のフレームを設定して情報を圧縮することは「アノマリー」ではなく、思考の条件なのだ。

政治的な論争では、同じフレームの中で細かいデータの正否が争われることは少なく、むしろ異なるフレーム同士の通約不可能性がデッドロックになることが多い。日本で経済学者が相手にされない原因は、彼らが学界の中で共有しているフレームが一般社会で通用しないからだ。個人が「完全情報」をもとに合理的に行動するという新古典派の仮定は、カントの否定した形而上学である。

もちろん単に不完全だとか不合理だといってもしょうがないので、今後はAkerlof-Krantonのようにフレームがどう形成されるかを分析するメタレベルの研究が必要だろう。イノベーションも本質的にフレーム転換であり、フレームを濃密に共有する日本型組織の特徴が破壊的イノベーションを阻害している。

カントがこうした問題の答を用意しているわけではないが、形式(カテゴリー)が内容に先立つというコペルニクス的転回は重要である。本書は従来、難解で読めたものではなかったカントの理論をていねいに解説した画期的な訳本だ。