おととい午前、菅首相と鳩山前首相の交わした「覚書」が話題になっている。
一、民主党を壊さないこと
二、自民党政権に逆戻りさせないこと
三、大震災の復興並びに被災者の救済に責任を持つこと
1、東日本大震災復興の基本方針及び組織に関する法律案(復興基本法案)の成立
2、第二次補正予算の早期編成のめどをつけること
これが全文である。どこにも「辞任する」という言葉はなく、署名もない。鳩山氏は「口頭で確認した」というが、それでは文書を交わす意味がない。おそらく法廷に出ても、首相の「辞めるとは約束していない」という主張が通るだろう。
なぜこんな曖昧な文書をつくったのだろうか。これを書いた北沢防衛相と平野元官房長官は「辞任は暗黙の了解であり、書くまでもないと思った」といっている。こういう「礼節」を守る文書は、双方に共通の了解があれば成り立つが、今回は大きな意見の食い違いがあるのだから、首相が「知らない」と言い張ったら無効になるのは当たり前だ。それをあとから「ペテン師」などと怒ってみても仕方がない。
ここまでお粗末な契約は珍しいが、総じて日本の契約は短い。海外で仕事をすると、ちょっとした請負契約でも何十ページもある契約書が出てくるが、日本では数ページでメクラ判を押すだけだ。契約違反についての罰則もほとんど書かれておらず、「本契約にない事態が発生したときは双方が誠意をもって協議する」などと書かれている。板ガラスや石油製品では、1年間の取引が終わってから価格を決める商慣習さえあった。
こういう暗黙の契約には、それなりの合理性がある。事前にあまり細かく決めると、事後的な調整が困難になるからだ。たとえば「納期に遅れた場合は契約は無効とする」と書いてあると「1週間待ってください」という話ができなくなり、契約をキャンセルすると依頼したほうも困る。だから納期を遅らせる代わりに割り引くといった再交渉の余地を残すために、契約を曖昧にするのだ。
しかしこうした曖昧な契約が役に立つのは、両者に長期的関係があって善意をもって再交渉に応じる場合に限られる。たとえばウェブサイトを受注した企業が、開業の直前になって「予定より手間がかかったので価格を2倍にしてくれ」とホールドアップすると、依頼人は応じざるをえない。繰り返しゲームも最終回になったら、首相のように前言を翻して裏切ることが合理的なのだ(フォーク定理は無限繰り返しゲームでしか成立しない)。
今回の覚書は、きのうの記事でも書いたように、日本的な長期的関係にもとづくガバナンスが機能しなくなったことを象徴している。こういうときは決定権者(residual claimant)を契約で明記し、違反した場合には彼が一方的に部下を解雇できるという法の支配でコントロールするしかない。それは最善の制度ではないが、長期的関係が維持できない「大きな社会」では次善のメカニズムしか設計できないのである。
付録:こうした「戦略的な曖昧さ」や「契約の最適な不完備性」については、多くの理論的な研究がある。テクニカルには、ワンショットのゲームでも契約を書く(あるいはエンフォースする)コストが高い場合は意図的に曖昧にすることが合理的になる。e.g. Bernheim-Whinston
なぜこんな曖昧な文書をつくったのだろうか。これを書いた北沢防衛相と平野元官房長官は「辞任は暗黙の了解であり、書くまでもないと思った」といっている。こういう「礼節」を守る文書は、双方に共通の了解があれば成り立つが、今回は大きな意見の食い違いがあるのだから、首相が「知らない」と言い張ったら無効になるのは当たり前だ。それをあとから「ペテン師」などと怒ってみても仕方がない。
ここまでお粗末な契約は珍しいが、総じて日本の契約は短い。海外で仕事をすると、ちょっとした請負契約でも何十ページもある契約書が出てくるが、日本では数ページでメクラ判を押すだけだ。契約違反についての罰則もほとんど書かれておらず、「本契約にない事態が発生したときは双方が誠意をもって協議する」などと書かれている。板ガラスや石油製品では、1年間の取引が終わってから価格を決める商慣習さえあった。
こういう暗黙の契約には、それなりの合理性がある。事前にあまり細かく決めると、事後的な調整が困難になるからだ。たとえば「納期に遅れた場合は契約は無効とする」と書いてあると「1週間待ってください」という話ができなくなり、契約をキャンセルすると依頼したほうも困る。だから納期を遅らせる代わりに割り引くといった再交渉の余地を残すために、契約を曖昧にするのだ。
しかしこうした曖昧な契約が役に立つのは、両者に長期的関係があって善意をもって再交渉に応じる場合に限られる。たとえばウェブサイトを受注した企業が、開業の直前になって「予定より手間がかかったので価格を2倍にしてくれ」とホールドアップすると、依頼人は応じざるをえない。繰り返しゲームも最終回になったら、首相のように前言を翻して裏切ることが合理的なのだ(フォーク定理は無限繰り返しゲームでしか成立しない)。
今回の覚書は、きのうの記事でも書いたように、日本的な長期的関係にもとづくガバナンスが機能しなくなったことを象徴している。こういうときは決定権者(residual claimant)を契約で明記し、違反した場合には彼が一方的に部下を解雇できるという法の支配でコントロールするしかない。それは最善の制度ではないが、長期的関係が維持できない「大きな社会」では次善のメカニズムしか設計できないのである。
付録:こうした「戦略的な曖昧さ」や「契約の最適な不完備性」については、多くの理論的な研究がある。テクニカルには、ワンショットのゲームでも契約を書く(あるいはエンフォースする)コストが高い場合は意図的に曖昧にすることが合理的になる。e.g. Bernheim-Whinston
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