資本主義と自由 (日経BPクラシックス)きのうのアゴラ連続セミナー最終回は、ミルトン・フリードマン。久しぶりに読み直してみて、やはり『資本主義と自由』は圧倒的におもしろい。古典というより、そのまま現代日本の問題を解決する武器として使えると思う。

経済学の世界では、この半世紀フリードマンはつねに論争の中心であり、理論的には彼が勝ったといってよい。彼を悪しざまに罵っていた宇沢弘文氏のような介入主義を支持する経済学者はいない。

フリードマンの理論は「人間は合理的個人であり、行動の責任は自分だけが負う」という公理にもとづいて演繹的に組み立てられており、公的年金を廃止するとか社会保障を負の所得税に一本化するとかいう過激な提案も、彼の公理系を認めると反論できない。

ただフリードマンの一つの限界は、市場メカニズムによって望ましい状態が実現するという新古典派の前提を認めていることだ。これはいわゆるパレート効率性ではなく、競争がある限り資本主義はみずから修正する力があるという考え方だが、彼の死後の2008年に起こった金融危機は、その前提に疑問を投げかけている。

これは市場メカニズムにおいて超過需要が価格の減少関数になっているというワルラス的モデルが成り立つかどうかという問題だ。これが成り立つと市場は自己補正的なネガティブ・フィードバックになるが、投機のように値上がりによって超過需要が増えると均衡から逸脱するポジティブ・フィードバックが発生する。

この点についてフリードマンは、投機によって愚かな投資家は市場で淘汰されるので、長期的には市場は正しい価格を発見すると論じた。これはラインハート=ロゴフのいう複数均衡の問題を無視しており、金融市場では単純な自由主義はうまく行かない。フリードマンの公理系の本質的な欠陥は、経済理論としてはこの点だけである。

根本的な問題は、彼の合理的個人という公理を認めるかどうかである。このような西欧的人間モデルは、地理的にも歴史的にも少数派であり、きわめて特殊なものだ。特に日本人には、このモデルはなかなか受け入れがたいだろう。民主党のバラマキ福祉やNHKの無縁社会キャンペーンに代表される温情主義は、よくも悪くも平均的な日本人の市場原理に対する気持ちを表現している。

しかし残念ながら、日本的コミュニティの最後のよりどころとなってきた会社共同体も、そう長くない。社会が原子的な<私>に分解する傾向は、いい悪いではなく避けられない。日本社会は、好むと好まざるとにかかわらず、フリードマンの公理系に近づいているのだ。この不都合な真実にどう向き合うかが、日本人の最大の課題だろう。