The Theological Origins of Modernityサンデルの流行が、日本人があらためて個人主義や自由主義を勉強しなおさなければならないと自覚したことを示しているのだとすれば、とてもいいことだ。しかし問題は、こうした啓蒙的な価値が普遍的なものかどうかということである。本書はこの問題について「否」という答を出して論議を呼んだ。

啓蒙主義は、一般にはキリスト教を否定して出てきたと考えられているが、著者もいうようにこれは逆である。むしろ啓蒙的無神論は、キリスト教の論理的帰結なのだ。これはウェーバーが『古代ユダヤ教』で論じたテーマである。不可視の神のみが真の実在で他はすべて虚妄だという世界観は、神を疑うと全面的なニヒリズムになってしまう。

この点を数百年に及ぶ論争で明らかにしたのが、普遍論争である。著者によれば、それは唯名論と実在論の論争ではなく、スコラ神学に対する論理学の挑戦だった。唯名論といえどもキリスト教なので、神の存在は認める。伝統的な神学では、本質的な実在は創造主たる神だけで、被造物は仮象だと考えるが、これでは神の外側にそれ以外の存在があることになり、神は普遍的ではない。神が真に普遍的なら個物はすべて普遍的であり、それ以外に実在はない――というのがオッカムの論理だった。

唯名論はフランシスコ派の教会改革運動から出てきたもので、神の福音を独占する教会の権威を否定し、真理は聖書の中にあるとする。この個人主義はルター以降の宗教改革に受け継がれ、全欧州を巻き込む宗教戦争の原因となった。啓蒙は宗教改革の中から生まれたもので、そこでは神は「理性」と名を変え、摂理は「法則」と名を変えて、実験によって検証できるものとされた。

したがって啓蒙は特殊西欧的な思想であり、それが普遍性を獲得したように見えるのは、技術的な実用性が高いからにすぎない。グローバル化を賞賛する人々も批判する人々も、その実体である啓蒙的自由主義の普遍性を疑っていないが、9・11以降のイスラムや最近の中国などの異質な「普遍」の登場は、啓蒙の普遍性に疑問を投げかけている。それは論理的にはキリスト教の変種にすぎず、それが多数派である理由はTCP/IPが多数派である理由と本質的に違いはない。

TCP/IPは合理的でも効率的でもないが、それが圧倒的な多数派である限り実用性は高く、それ以外のプロトコルを採用する理由はない。近代科学も真理かどうかはわからないが、それが役に立つことは間違いない。中国は啓蒙というプロトコルを採用し始めたようにみえるし、イスラムにもそれ以外の選択はないだろう。日本が「古来の文化的伝統」を振り回したところで、それも少数派のプロトコルに過ぎない。