〔新装版〕 現代政治の思想と行動朝生でも話題になったのは、民主党内のゴタゴタが毎日報道されることにうんざりしているという話だが、これは別に民主党に限った話ではない。丸山眞男は50年前の本書で「日本の新聞社の政治部は『政界部』だ」と語り、それは日本の政治が西洋で想定されている法の支配とは異なり、「顔」とか「腹」などの人間関係と切り離せない「肉体政治」だからだと(冗談めかして)述べている。

会社はcompany、政党はpartyだが、いずれも原義は特定の目的のもとに友人が集まった結社(Gesellschaft)である。近代社会の特徴は、このように契約によって人工的につくられたフィクションとしての組織が中核をなす点にあり、それは圧倒的多数の社会が自然な共同体(Gemeinschaft)であるのと対照的だ。日本は明治期に法律や制度だけをゲゼルシャフトに変えたが、その根底においてゲマインシャフト的な性格を強く残している。

両者の違いは、ゲーム理論でいう戦略的ゲームと長期的関係の違いである。1回かぎりの目的にそって集まって終わったら解散するゲゼルシャフトでは、人々は戦略的に行動するので、彼らのペイオフとなる政策などの目標が重要だが、一生つきあうゲマインシャフトでは、どの親分についていったら次の選挙で生き残れるかという人間関係が重要で、政策はどうでもよい。逆に力のある親分が決めた政策が、党としての政策になる。

このように「戦略が人事に従う」構造は、日本の会社でも同じだ。サラリーマンの飲み屋の話題の半分以上は人事の話で、「**さんは変なポストに飛ばされたが何かあったのか」というように、ほとんどの情報が固有名詞つきだ。社員の権力は専門能力ではなく彼の人脈や地位で決まるので、「本流」ポストからはずれるかどうかが最大の関心事である。だからサラリーマンである記者が、政治家の人事にもっぱら興味をもつのは当然だ。

政局が政策を決める日本的構造は昔も今も変わらないが、変わったのは国民の意識である。自民党でも「40日抗争」とかひどい派閥抗争がよくあったが、そのころ政策の違いを議論する人はいなかった。1980年ごろは日本経済はまだ成長を続け、どんどん税収が増え、実務は官僚がきちっと仕切るので、政治家は何をしていてもよかったのだ。しかし成長が止まって利害対立が先鋭化すると、政局や人間関係ではコントロールできなくなる。これも会社と同じである。

丸山は西欧近代をモデルにして日本の後進性を批判し、それがまたかつての戦争のような道に行き着くのではないかという危惧を繰り返し表明している。しかし「全面講和」や「安保反対」をとなえた進歩的知識人は、彼らの侮蔑した自民党・財界に敗北し、日本は丸山の予想とは逆に奇蹟的な成長を遂げ、彼の問題意識は風化してしまった。

だが今、日本の政治や経済が直面しているのは、別の意味での丸山的な問題である。政党はバラバラになり、会社は求心力を失って長期雇用は経営の足枷になっている。このように溶解する組織をどう再建するかの答は見えないが、はっきりしているのは古い共同体に戻ることはもう不可能だということだ。たぶん一度、徹底的に壊れたところから個人が自立するしかないだろう。その意味では、政府にも会社にも頼れなくなったのはいいことかもしれない。