民主党政権が迷走するのは、自民党のように既得権保護という一貫した方針がないためで、必ずしも悪いことではない。問題は、既得権に代わる理念を彼らがもっていないことだ。しかしそのヒントは、菅首相や仙谷官房長官の学生時代にあるかもしれない。
彼らが所属した構造改革派は、全共闘の主流だったマルクス=レーニン主義とは違い、議会主義によって権力を取る穏健派だった。特に菅氏が創立に参加した社会市民連合(のちの社会民主連合)は、その名のとおり、プロレタリアートではなく市民を変革の主体とする新しい党だった。本書は、こうした「市民派」の依拠する市民社会の概念をアリストテレスにさかのぼって検証し、その日本的なバイアスを明らかにしている。
彼らが所属した構造改革派は、全共闘の主流だったマルクス=レーニン主義とは違い、議会主義によって権力を取る穏健派だった。特に菅氏が創立に参加した社会市民連合(のちの社会民主連合)は、その名のとおり、プロレタリアートではなく市民を変革の主体とする新しい党だった。本書は、こうした「市民派」の依拠する市民社会の概念をアリストテレスにさかのぼって検証し、その日本的なバイアスを明らかにしている。
市民社会(societas civitas)という言葉は、古代ギリシャではポリスの「国家共同体」という意味で、ホッブズやロックでも国家を含む概念だった。これを「文明社会」という意味で使ったのはスミスだが、ヘーゲルがそれを利己的な市民の「欲望の体系」としてのburgerliche Gesellschaftという強力な概念装置にした。これによって市民社会=市場経済を近代社会のコアと考える理論ができ、これがマルクスにも受け継がれて、日本にも強い影響を及ぼした。
日本で市民社会という言葉を使い始めたのは、講座派マルクス主義者である。彼らは日本を封建的な絶対主義国家と規定したコミンテルンの「32年テーゼ」にもとづいて、まず天皇制を打倒してブルジョア革命を行なってから社会主義革命を行なうという「二段階革命」を主張した。ここではブルジョア社会=市民社会は「近代化」という肯定的な意味をもっていた。
この影響は、戦後の丸山眞男や大塚久雄などの「近代化論」に受け継がれ、内田義彦や平田清明などの市民社会派マルクス主義が私の学生時代には流行した。その影響を受けて「社公民路線」によって政権交代を実現しようとしたのが、構造改革派だった。社市連の綱領である「明日の日本のために―市民社会主義への道―」は次のように書く:
本書も指摘するように、こうした「市民社会主義」の依拠する市民社会の概念は特殊日本的であり、古い日本社会への嫌悪と西洋へのあこがれをマルクスに読み込んだものだった。資本主義社会とは別の市民社会が歴史的に存在したことはなく、資本主義なき市民社会を「アソシエーション」として実現するというマルクスの構想も、ユートピアにすぎなかった。やがてマルクス主義そのものの没落とともに、市民社会論も消え去った。
しかし最近のコミュニタリアンやソーシャル・キャピタルの文献には、市民社会という言葉がよく出てくる。パットナムはイタリア北部で民主主義が成立した最大の要因を「市民共同体」にもとめ、民主主義のコアにあるのは国家権力ではなく、自立した市民の連帯だと考える。グローバル化によって国家や企業の力が弱まり、社会が原子的な<私>に分解する中で、彼らを結びつける理念として市民社会が求められているのだ。
1970年代に自立的市民の連帯を求めた構造改革派は、ある意味では早すぎたのかもしれない。彼らが否定しようとした「家族的共同体」としての日本的企業は当時は強力で、80年代には世界を制覇したようにみえた。しかし90年代以降、会社共同体の求心力が失われる中で、市民は否応なく自立を求められ、講座派的な問題意識がまた意味をもつようになった。
ただし市民を保護するために政府が経済に介入して所得を再分配するという構造改革派のコンセプトは、旧態依然の福祉国家である。いま必要なのは、終身雇用・年功序列などの「共同体秩序」の解体を促進し、組織に依存しないで自立する市民を支援する制度設計である。民主党がこれから綱領を書くなら、「国家や会社に依存するサラリーマンから自立する市民へ」という理念を掲げてはどうだろうか。
本書は平田の弟子による市民社会論の客観的な評価としてはよく書けているが、最後になって唐突に「新自由主義」を自民党・財界のイデオロギーとして攻撃し、「政府に対して、労働者派遣法に代表されるような新自由主義的政策の転換を求める」などと結ぶのはぶち壊しである。こういうマルクス主義=国家主義を清算しない限り、自立的市民の社会は構築できない。
日本で市民社会という言葉を使い始めたのは、講座派マルクス主義者である。彼らは日本を封建的な絶対主義国家と規定したコミンテルンの「32年テーゼ」にもとづいて、まず天皇制を打倒してブルジョア革命を行なってから社会主義革命を行なうという「二段階革命」を主張した。ここではブルジョア社会=市民社会は「近代化」という肯定的な意味をもっていた。
この影響は、戦後の丸山眞男や大塚久雄などの「近代化論」に受け継がれ、内田義彦や平田清明などの市民社会派マルクス主義が私の学生時代には流行した。その影響を受けて「社公民路線」によって政権交代を実現しようとしたのが、構造改革派だった。社市連の綱領である「明日の日本のために―市民社会主義への道―」は次のように書く:
市民社会主義のエートスを表現する人間類型は自立的市民である。自立的市民とは労働者や農民と区別され、対置される特定の階級、階層を意味するカテゴリーではなく、あらゆる階層をつらぬいて、共同体への埋没や組織への従属から解放され、自主的な判断、公的、社会的な関心、市民的な自発性をもち、かつそれを可能とする一定の余暇と教養をそなえた、人間類型を意味する。この文書には「自立」という言葉が22回も出てくる。そこで問題にされているのは古典的な階級闘争ではなく「産業活動が自立化し、その巨大な管理機構の位階制的秩序のもとに人々をくみ込み、人々から市民的自立性を奪う」管理社会批判であり、市民を抑圧する企業からの自立だった。
本書も指摘するように、こうした「市民社会主義」の依拠する市民社会の概念は特殊日本的であり、古い日本社会への嫌悪と西洋へのあこがれをマルクスに読み込んだものだった。資本主義社会とは別の市民社会が歴史的に存在したことはなく、資本主義なき市民社会を「アソシエーション」として実現するというマルクスの構想も、ユートピアにすぎなかった。やがてマルクス主義そのものの没落とともに、市民社会論も消え去った。
しかし最近のコミュニタリアンやソーシャル・キャピタルの文献には、市民社会という言葉がよく出てくる。パットナムはイタリア北部で民主主義が成立した最大の要因を「市民共同体」にもとめ、民主主義のコアにあるのは国家権力ではなく、自立した市民の連帯だと考える。グローバル化によって国家や企業の力が弱まり、社会が原子的な<私>に分解する中で、彼らを結びつける理念として市民社会が求められているのだ。
1970年代に自立的市民の連帯を求めた構造改革派は、ある意味では早すぎたのかもしれない。彼らが否定しようとした「家族的共同体」としての日本的企業は当時は強力で、80年代には世界を制覇したようにみえた。しかし90年代以降、会社共同体の求心力が失われる中で、市民は否応なく自立を求められ、講座派的な問題意識がまた意味をもつようになった。
ただし市民を保護するために政府が経済に介入して所得を再分配するという構造改革派のコンセプトは、旧態依然の福祉国家である。いま必要なのは、終身雇用・年功序列などの「共同体秩序」の解体を促進し、組織に依存しないで自立する市民を支援する制度設計である。民主党がこれから綱領を書くなら、「国家や会社に依存するサラリーマンから自立する市民へ」という理念を掲げてはどうだろうか。
本書は平田の弟子による市民社会論の客観的な評価としてはよく書けているが、最後になって唐突に「新自由主義」を自民党・財界のイデオロギーとして攻撃し、「政府に対して、労働者派遣法に代表されるような新自由主義的政策の転換を求める」などと結ぶのはぶち壊しである。こういうマルクス主義=国家主義を清算しない限り、自立的市民の社会は構築できない。