職業としての政治 (岩波文庫)北朝鮮が韓国を砲撃した。今のところ局地戦にとどまるようだが、政権移行にともなう不安定な状況は予断を許さない。まさに国家が暴力装置に他ならないことを示す事件である。思い出して、学生時代以来ひさしぶりにウェーバーを読み返してみた。問題の記述は、岩波文庫版では次のようになっている:
国家とは、ある一定の領域の内部で正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である。国家以外のすべての団体や個人に対しては、国家の側で許容した範囲でしか物理的暴力行使の権利が認められない[・・・](p.9 強調は原文)
ここでウェーバーが「物理的」と書いているように、このGewaltは殺傷能力であり、間接的な「強制力」ではない。念のためいうと、彼は「暴力装置」という言葉は使っておらず、これはレーニンが『国家と革命』(1917)で使った言葉である。このウェーバーの規定も、ブレスト=リトフスク条約の際のトロツキーの言葉を引用しており、本書(1919)の2年前に起こったロシア革命を念頭に置いていることは明らかだが、国家の本質が暴力の独占にあることは左翼思想でも何でもない。

本書はドイツ革命の渦中で行なわれた講演で、「千年王国」を築こうとする極左勢力の心情倫理を批判し、善意がよい結果をもたらすとは限らないと述べる。政治は軍や警察という暴力装置を使って目的を達する以上、その動機がいいか悪いかという心情倫理で行動することは許されない。崇高な理想が(ロシア革命のように)最悪の結果をもたらすこともあれば、下賤な欲望が繁栄をもたらすこともある。政治にとって重要なのは動機や手段ではなく、結果についての責任倫理である。

ところが「平和主義」という心情倫理を憲法に記した日本では、政治家は自衛隊を「実力組織」といいかえれば、それが殺傷能力をもつ軍隊であるという事実も隠すことができると思っているらしい。しかしウェーバーもいうように、政治とは暴力という「悪魔との結託」によって目的を達成する職業であり、平和は目的であって手段ではない。自民党も、いつまでもこういう揚げ足取りで国会を空転させるのはやめ、北朝鮮の暴力にどう対処するか、与野党ともに真剣に考えたほうがいいのではないか。