リスクに背を向ける日本人 (講談社現代新書)日本経済の行き詰まりの一つの原因として、家計貯蓄の半分以上が現金・預金で運用されているため、リスクマネーが供給されないことがよく指摘される。この原因は金融機関が銀行に片寄っているためではないか、ということでバブル期には海外の投資銀行が大挙して押し寄せたが、バブル崩壊後にほとんどが撤退した。日本人がリスクがきらいなのは銀行が多いからではなく、逆に日本人がリスク回避的だから預貯金が多いと考えるしかない。

本書の紹介している「世界価値観調査」でも、「自分は冒険やリスクを求める」というカテゴリーに当てはまらないと思っている人の比率は、英米・カナダ・オランダなどで40%前後であるのに対して、日本人は70%以上で、調査対象国の中で最大だ。これはある種の文化的なものだと思われるが、常識的にはリスクが低いと思われている日本で、リスクを避ける傾向がこれほど強いのはなぜだろうか?

著者の答は、日本のほうがリスクが高いからというものだ。一見、雇用の保証がなく自己責任になっているアメリカのほうがリスクが高いようにみえるが、社会のしくみが解雇や転職が多いことを前提につくられているので、クビになっても新たな職を見つけやすい。今は失業率が高いが、3年以上の長期失業率はアメリカが主要国でもっとも低い。これに対して日本は、会社にしがみついている限りリスクはないが、その外に出ると転職はきわめて困難でセーフティ・ネットもなく、リスクがきわめて大きい。

これは山岸俊男氏も指摘するように、一種のゲーム理論的な均衡状態である。実験によれば、日本人は個人としては必ずしも集団主義ではないが、他人の目を気にする傾向が強い。これは日本人の性格というより組織への同調を求める日本の社会の特性によるもので、組織や制度が変われば個人も変わる可能性がある。

人々が企業や系列などのムラの中で動いて変化に対応する戦略は、変化が系列ネットワークの中で吸収できる場合にはそれなりに有効だった。しかし90年代以降、冷戦の終了によって新興国が世界市場に登場し、資本がグローバルに移動するようになると、企業集団の中でヒトもカネも閉鎖的に管理する日本企業は、グローバル競争の敗者になろうとしている。

つまり今起こっているのは、山岸氏のいう「集団主義的秩序」という均衡の安定性が失われ、別の流動的でオープンな均衡に移行しようとしている状況だが、漸進的に新しい均衡に移行するのはむずかしい。今の均衡を所与とすると、それに順応して会社にしがみつくことが合理的になるからだ。不況で不安が強まると、かえって民主党のように古い秩序に回帰する動きが強まる。

しかし均衡は宿命ではない。江戸時代には人々は身分制度に順応していたが、封建制が崩壊すると短期間に新しい均衡に順応した。明治憲法で軍部の支配に従っていた人々は、進駐軍を熱狂的な歓喜で迎えた。いま日本の必要としているのは漸進的な改良ではなく、まったく別の均衡に移る均衡選択であり、それに必要なのは個別の政策よりもマッカーサーのような強力な指導者だろう。