ことばと思考 (岩波新書)20世紀の「言語論的転回」のモデルは、古典力学だった。レヴィ=ストロースがヤコブソンの音韻学理論を「人文科学におけるニュートンの運動方程式」と呼んだことが象徴しているように、人類に普遍的な理性を追究することがその理想だった。しかし、こうした合理主義が生成文法や人工知能のような極端な機械論に変質すると、例外だらけの無内容な理論になってしまった。

これに対して、21世紀の「認知論的転回」の出発点は脳科学である。そこには遺伝的に決まった(人類に普遍的な)前言語的な層と、文化的に決まる(各コミュニティに固有の)言語的な層がある。本書は、人間の思考がどこまで普遍的でどこまで各言語に規定されるかを実証的に明らかにしたものだ。

たとえば日本語では「青葉」とか「青信号」というように、blueとgreenの区別がはっきりしない(「みどり」という言葉はもとは色の名ではなく「新しい芽」という意味)。世界的にみると日本語のほうが多数派で、119の言語についての調査では、青と緑を区別する言語は30しかない。他方、英語では黄色と肌色の区別がないため、東洋人をyellow raceと呼ぶ――というように色の名だけでも多様で、思考法が言語に固有のカテゴリーに規定されるという「サピア=ウォーフ仮説」が当てはまるようにみえる。

他方で普遍性もある。名詞を区別する方式は世界中で、単数/複数、男性/女性、助数詞(個・枚・匹など)の3種類しかないのだ。これはヤコブソンが音素の弁別特性が世界で7種類しかないことを発見したのに似ている。統辞論では、名詞と動詞の区別があるとか入れ子構造になっているといった共通点が知られているが、こうした「普遍文法」の内容は希薄で、現実の文法を説明する役には立たない。

経済学も、すべての「経済人」に普遍的な機械論的モデルでやることはやりつくした感があるので、今後は本書のような博物学的な実証研究も必要かもしれない。日本経済がここまでボロボロになっても、政治家や経営者がなぜ変われないのかを考えるには、歴史学や民俗学などの「古層」を参照することも必要だろう。プロスペクト理論も明らかにしたように、人々は心理的・文化的なフレームを基準にして行動するからである。