故郷/阿Q正伝 (光文社古典新訳文庫)尖閣問題をめぐってナショナリズムが沸騰しているが、中国の非常に政治的な対応をみていると、私は魯迅を思い出す。特に「阿Q正伝」(青空文庫でも読める)には、彼の母国への痛切な思いがこめられている。

無名の主人公(かりに阿Qと呼ばれている)は、村では人々から軽蔑されている与太者だが、あるとき隣の村に「革命党」がやってきたと聞いてそれに便乗し、革命が何を意味するかも知らずに自分も革命党の一員だと吹聴して騒ぎ回り、村人から恐れられる。しかし結局、村には革命党はやってこず、阿Qは無実の罪を着せられて処刑される。

ここに描かれている中国の社会では、国家権力と個人が直結している。「革命派」かどうかで親子でも敵同士になり、どの党派に所属しているかが生命の問題になる。革命の意味を知らなくても、多くの村人が革命派になったら自分も革命派にならないと命が危ない。これは1921年の作品だが、その後の文化大革命を予見しているようにみえる。

中国は古来から、強大な皇帝によって統治される中央集権国家で、国家の隅々まで皇帝の統治が及び、地域コミュニティが弱い。梅棹忠夫も指摘するように、これは中国がつねに異民族との紛争を抱えていたためで、中間集団が強く国家が弱い日本とは逆だ。部族社会が「大きな社会」になるとき、3つの類型がある:
  1. 村落がゆるやかに連合した部族国家
  2. 中央集権の専制国家
  3. 法の支配による主権国家
日本の検察(あるいは政府)が「対中関係に配慮」して船長を釈放したことが「法の支配に反する」として問題になっているが、日本は1の類型に近いので、検察も法の支配という概念を理解していないのだろう。中国は2の類型で、もともと法の支配という概念がないから、「日本は法の支配にもとづいて粛々と裁く」といっても通用しない。

今回の国境紛争は、西洋的な法治国家とまったく異なる原理――これは秦の始皇帝から中国共産党まで一貫している――による国家の挑戦と考えることができよう。法治国家が普遍的にすぐれたモデルで、すべての国はそうなるべきだという西洋の自民族中心主義には疑問があるが、東洋的専制がそれよりすぐれているかどうかはもっと疑問だ。個人がいつも国家権力に翻弄され、政治が人々の生活を踏みにじる中国の伝統への魯迅の嘆きは、単に豊かになれば解決するという類の問題ではないだろう。