デフレ脱却国民会議の面々によれば、日銀は何もせずに保身をはかっているそうだが、本書を読むと日銀がいかにあの手この手でデフレ対策を講じたかがわかる。もちろん結果責任は問われなければならないが、「デフレ・ターゲット」などというのは言いがかりである。
日銀の政策に限界があるのは、著者もいうようにデフレの根本原因が投資需要の減退による自然利子率の低下という金融政策の及ばない問題にあるからだ。自然利子率はおおむね潜在成長率に等しいので、「成長力」を上げない限りデフレを脱却することはできない。2006年からデフレが緩和したのは成長率が回復したためで、ゼロ金利に戻したのは2008年の需要ショックが原因だった。
日銀の政策に限界があるのは、著者もいうようにデフレの根本原因が投資需要の減退による自然利子率の低下という金融政策の及ばない問題にあるからだ。自然利子率はおおむね潜在成長率に等しいので、「成長力」を上げない限りデフレを脱却することはできない。2006年からデフレが緩和したのは成長率が回復したためで、ゼロ金利に戻したのは2008年の需要ショックが原因だった。
著者は副総裁だったが、2007年の利上げには反対票を投じるなど「ハト派」で、インフレ目標にも好意的だ。著者のもとで、日銀は「物価安定の理解」という形でインフレ目標を公表した。ただしその目標をどうやって実現するのかについては確信はなく、いろいろな政策手段で試行錯誤したようだ。
印象的なのは、こうした日銀の政策が、ニューケインジアン経済学の新しいフレームワークの形成と並行しており、いわばその実験として行なわれた面があることだ。特にWoodfordなどが提唱した、緩和を長期にわたって(デフレ脱却後も)続けるというコミットメントによってインフレ予想を形成する政策は、時間軸政策として一定の効果があったと著者はみている。
著者の目から見ると、日銀の主流はこうした時間整合性にあまり関心がなく、政治的圧力や各国との協調に配慮しすぎと見えたようだ。利上げのときは、円キャリートレードで迷惑しているという海外の中央銀行の圧力が強かったらしい(日銀が物価上昇率0%を目標にしているというのは誤解)。この点では、デフレ脱却法案とか議連とか騒ぐ政治家は有害無益だろう。
ただ本書は、副総裁としての回顧録のあいまにマクロ経済理論の解説が断片的に混じっていて読みにくい。経済学に関する部分は、植田和男氏のように理論的にまとめたほうがよかったと思う。
印象的なのは、こうした日銀の政策が、ニューケインジアン経済学の新しいフレームワークの形成と並行しており、いわばその実験として行なわれた面があることだ。特にWoodfordなどが提唱した、緩和を長期にわたって(デフレ脱却後も)続けるというコミットメントによってインフレ予想を形成する政策は、時間軸政策として一定の効果があったと著者はみている。
著者の目から見ると、日銀の主流はこうした時間整合性にあまり関心がなく、政治的圧力や各国との協調に配慮しすぎと見えたようだ。利上げのときは、円キャリートレードで迷惑しているという海外の中央銀行の圧力が強かったらしい(日銀が物価上昇率0%を目標にしているというのは誤解)。この点では、デフレ脱却法案とか議連とか騒ぐ政治家は有害無益だろう。
ただ本書は、副総裁としての回顧録のあいまにマクロ経済理論の解説が断片的に混じっていて読みにくい。経済学に関する部分は、植田和男氏のように理論的にまとめたほうがよかったと思う。