大ベストセラーになったサンデルの師匠、テイラーの主著が20年ぶりに翻訳され、今月末に出ることになった。9975円という値段は一般の読者には無理なので、ビジネスマンには本書を要約したラジオ講演、『「ほんもの」という倫理』をおすすめする。
本書は訳本で700ページもあるが、大部分はよくも悪くも常識的な西洋哲学史のおさらいである。著者はカナダの哲学者だが、昔は新左翼の活動家でヘーゲルの研究者という経歴からもわかるように、近代的自我を自明なものとは考えず、特殊西欧的なイデオロギーととらえ、この人工的な概念がどのようにできたかを明らかにする。
本書は訳本で700ページもあるが、大部分はよくも悪くも常識的な西洋哲学史のおさらいである。著者はカナダの哲学者だが、昔は新左翼の活動家でヘーゲルの研究者という経歴からもわかるように、近代的自我を自明なものとは考えず、特殊西欧的なイデオロギーととらえ、この人工的な概念がどのようにできたかを明らかにする。
人類は、歴史の圧倒的大部分で数十人から数百人の小集団に組み込まれて暮らしており、王以外の個人名が残ることはきわめて異例だった。その例外が古代ギリシャだが、そこでもプラトンの背後にはポリスという共同体があり、彼の言説の正統性はイデア=神の世界に支えられていた。キリスト教においても、カトリシズムは教会を中心とする共同体だが、アウグスティヌスは教会ではなく自己の「内なる声」に真理の根拠を求めた。
このような内面を根拠として自我という不動点を置き、そこから科学や道徳を考える発想は、デカルト以降の啓蒙思想に受け継がれ、今日まで続いている。これに対して、ヘーゲル以降のドイツ観念論は自我という概念は幻想だと批判し、ニーチェからポストモダンに至る人々は、自我に依拠する絶対的価値を否定する。啓蒙的な個人主義が論理的にはニヒリズムに行き着かざるをえないというニーチェの洞察は正しいが、ほとんどの人はそのような砂漠状態には耐えられない。
近代社会の繁栄をもたらしたのは、このように自我という単位に社会を「モジュール化」して組み替える流動性だが、それによって社会は断片化し、人々は所属していた共同体を離れ、原初的なアイデンティティを失う。そして近代社会で人工的に形成された個人主義的アイデンティティの根拠となる企業などの利益集団は、市場の変化にさらされて不安定なので、人々はその不安から逃れるために、すべてを抱擁する「巨大な後見的権力」に救いを求める。
いま日本で人々が直面しているストレスは、このように近代社会が20世紀後半以降の「後期近代」で徐々に経験してきた、社会の断片化によるアイデンティティの喪失という不安が、経済の行き詰まりによって急性の症状としてあらわれただけだ。そこには本質的に新しい問題はなく、簡単な解決法もない。
この不安をバラマキ福祉で埋めようとすることは、問題の解決にならないばかりか、政府への依存を強めて社会をさらに停滞させるだろう。著者のいうように「多元的な共同体」を再建することも、いまだに遠い理想にとどまる。欧米では1980年代から学問的に論じられているこの種の問題が、日本ではワイドショー的なレベルでしか論じられないのは不幸なことだ。
このような内面を根拠として自我という不動点を置き、そこから科学や道徳を考える発想は、デカルト以降の啓蒙思想に受け継がれ、今日まで続いている。これに対して、ヘーゲル以降のドイツ観念論は自我という概念は幻想だと批判し、ニーチェからポストモダンに至る人々は、自我に依拠する絶対的価値を否定する。啓蒙的な個人主義が論理的にはニヒリズムに行き着かざるをえないというニーチェの洞察は正しいが、ほとんどの人はそのような砂漠状態には耐えられない。
近代社会の繁栄をもたらしたのは、このように自我という単位に社会を「モジュール化」して組み替える流動性だが、それによって社会は断片化し、人々は所属していた共同体を離れ、原初的なアイデンティティを失う。そして近代社会で人工的に形成された個人主義的アイデンティティの根拠となる企業などの利益集団は、市場の変化にさらされて不安定なので、人々はその不安から逃れるために、すべてを抱擁する「巨大な後見的権力」に救いを求める。
いま日本で人々が直面しているストレスは、このように近代社会が20世紀後半以降の「後期近代」で徐々に経験してきた、社会の断片化によるアイデンティティの喪失という不安が、経済の行き詰まりによって急性の症状としてあらわれただけだ。そこには本質的に新しい問題はなく、簡単な解決法もない。
この不安をバラマキ福祉で埋めようとすることは、問題の解決にならないばかりか、政府への依存を強めて社会をさらに停滞させるだろう。著者のいうように「多元的な共同体」を再建することも、いまだに遠い理想にとどまる。欧米では1980年代から学問的に論じられているこの種の問題が、日本ではワイドショー的なレベルでしか論じられないのは不幸なことだ。