平岡公彦氏からおもしろいTBが来たので、先日の疎外論の記事を少し補足しておこう。いうまでもなく私は疎外論が現代において重要だといっているのではないが、それが乗り超えられたわけでもない。幼稚な疎外論を語る手合いは後を絶たないので、基本的なことを確認しておく意味はあろう(マルクス学的トリビアなので、ほとんどの人には読む価値がない)。
「マルクスは疎外論を乗り超えたか否か」というのは、かつて世界的な大論争になったテーマである。ドゥルーズは「『資本論』においては、社会的多様体の核心にひそむ異化=分化のカテゴリー(分業)が、対立、矛盾、疎外といったヘーゲル的概念に取ってかわっている」と前者の立場をとっているが、これは文献学的には疑問だ。労働価値説では労働時間という価値実体が想定されており、ドゥルーズのいう「複数性」や「差異」は抹消されているからだ。
マルクス自身もこの問題は意識しており、『資本論』でもサミュエル・ベイリーという無名の経済学者について延々と論じている。ベイリーはリカードの労働価値説を批判して、価値は主観的な概念だから、その背後に労働などという実体を想定する必要はないと論じた。10時間かけた商品と5時間かけた商品の出来が同じなら、前者に後者の2倍の価格をつけることはできない。マルクスもここまでは認めるのだが、社会的には5時間が正しい価値だという価値実体論に飛躍してしまう。
今日からみればベイリーの主観的価値論のほうが正しいことは明らかであり、彼が限界概念を発見していれば、現代の経済学の元祖の一人として歴史に残っただろう。マルクスもベイリーを論じながら、主観的価値論にあと一歩のところまで接近している。有名な「商品の価値は物と物の関係ではなく人と人の関係で決まる」という物神性論は、ベイリーに触発されたものだ。
これは中世以来の実在論と唯名論の対立の変奏であり、マルクスはヘーゲルの実在論を批判しながら、価値実体という実在論に回帰している。その矛盾には彼も気づいており、『資本論』を何度も書き直そうとして断念している。『資本論』の第1巻が出版されたのは1867年だが、彼が死んだのは1883年。それは彼の死によって未完に終わったのではなく、行き詰まって結論が出せなかったのだ。同じ欠陥は、物神性論を物象化論として継承したルカーチにも廣松渉にも受け継がれている。
この問題は、現実の市場をみるときも重要である。バブルがすでに存在するときは、人々はprice takerとして行動するが、2008年のようにそれが崩壊すると、新しい価格を決めることはきわめてむずかしい。「人々が他人の決めた相場に従う」という合意が失われると「正しい価格」は存在しないからだ。この点では、資産価格は「美人投票」で自己言及的に決まるとのべたケインズの唯名論のほうが正しいが、それは何もいっていないに等しい。
この点を指摘したのは、デリダである。「価値の幽霊的性格」を指摘しながら、その背後に労働時間という実体を想定するマルクスの価値論は致命的な矛盾をはらんでいる。価値は本質的に亡霊であり、それを確実なものとして語ろうとした瞬間に蒸発してしまうのだ。複数性や差異を理論的に扱うフレームワークをマルクスは作ることができなかったが、それはドゥルーズにもデリダにもできなかった現代的課題である。
マルクス自身もこの問題は意識しており、『資本論』でもサミュエル・ベイリーという無名の経済学者について延々と論じている。ベイリーはリカードの労働価値説を批判して、価値は主観的な概念だから、その背後に労働などという実体を想定する必要はないと論じた。10時間かけた商品と5時間かけた商品の出来が同じなら、前者に後者の2倍の価格をつけることはできない。マルクスもここまでは認めるのだが、社会的には5時間が正しい価値だという価値実体論に飛躍してしまう。
今日からみればベイリーの主観的価値論のほうが正しいことは明らかであり、彼が限界概念を発見していれば、現代の経済学の元祖の一人として歴史に残っただろう。マルクスもベイリーを論じながら、主観的価値論にあと一歩のところまで接近している。有名な「商品の価値は物と物の関係ではなく人と人の関係で決まる」という物神性論は、ベイリーに触発されたものだ。
これは中世以来の実在論と唯名論の対立の変奏であり、マルクスはヘーゲルの実在論を批判しながら、価値実体という実在論に回帰している。その矛盾には彼も気づいており、『資本論』を何度も書き直そうとして断念している。『資本論』の第1巻が出版されたのは1867年だが、彼が死んだのは1883年。それは彼の死によって未完に終わったのではなく、行き詰まって結論が出せなかったのだ。同じ欠陥は、物神性論を物象化論として継承したルカーチにも廣松渉にも受け継がれている。
この問題は、現実の市場をみるときも重要である。バブルがすでに存在するときは、人々はprice takerとして行動するが、2008年のようにそれが崩壊すると、新しい価格を決めることはきわめてむずかしい。「人々が他人の決めた相場に従う」という合意が失われると「正しい価格」は存在しないからだ。この点では、資産価格は「美人投票」で自己言及的に決まるとのべたケインズの唯名論のほうが正しいが、それは何もいっていないに等しい。
この点を指摘したのは、デリダである。「価値の幽霊的性格」を指摘しながら、その背後に労働時間という実体を想定するマルクスの価値論は致命的な矛盾をはらんでいる。価値は本質的に亡霊であり、それを確実なものとして語ろうとした瞬間に蒸発してしまうのだ。複数性や差異を理論的に扱うフレームワークをマルクスは作ることができなかったが、それはドゥルーズにもデリダにもできなかった現代的課題である。