世界史の構造「世界史」と銘打っているが、具体的な史実はまったく書いてない。その「構造」についての理論的な分析が行なわれているわけでもなく、マルクスにウォーラーステインとネグリ=ハートを接合し、カントの「世界政府」論で終わる荒っぽいものだ。『トランスクリティーク』から8年かかって書いたそうだが、中身はまったく進歩していない。

著者の問題意識は、マルクスの「土台=上部構造」図式を乗り超えて「資本=ネーション=国家」を統一的に語る枠組をつくりたいということらしい。それは晩年のフーコーも試みたことだが、両者を比べると著者の視野は狭く、勉強が足りない。宇野弘蔵や廣松渉の影響が抜けておらず、図式が観念的で古い。いまだに経済システムを「商人資本と産業資本」などという話から説き起こすセンスは、若い世代にはついていけないだろう。

特にわからないのは、繰り返し出てくる「世界共和国」である。そんなものがどうやって可能なのか、そして何のために「国家を揚棄」するのかというモチベーションがわからない。ネグリ=ハートのマルチチュードも引き合いに出されるが、そこでテーマとなっている「コモンズ」も出てこない。「ネーション=ステート」を超えてめざす世界は、1章をさいている「アソシエーショニズム」らしいが、そんなものがナンセンスであることは著者の試みた革命ごっこ(NAM)の失敗でわかったのではないのか。

それに比べれば、ジジェクの『ポストモダンの共産主義』のほうがおもしろい。ここでは「非物質的労働」が経済の主役になる時代には、物的資本の所有権をコアとする資本主義は時代遅れだという明確な時代認識があり、新しいコミュニズムがインターネットを核として再生するという、それなりにもっともらしい未来像が描かれている。

ただしジジェクは、今どき共産主義を語ることが「笑劇」だということは自覚しており、2008年に資本主義が「全面的危機」に直面しても、それに代わる未来像を描けない左翼のトホホな現状を自嘲的に語っている。それに対して、いまだに「世界同時革命」をまじめに語り、国連を世界共和国の原型として評価する本書は、徹頭徹尾ピンぼけというしかない。