マルクス主義は自由主義の対極にあると思われているが、マルクスの思想の本質は自由主義である。彼は社会主義という言葉をネガティブな意味でしか使わなかった。共産主義という言葉も晩年にはあまり使わず、好んで使ったのは自由の国(Reich der Freiheit)という言葉である。
マルクスが資本主義の彼方に想定したのは、資本家による生産手段の私的独占を廃止し、労働者が共有するアソシエーションだった。彼はそれを共和制にたとえた。資本主義が独裁だとすると、アソシエーションは労働者が生産を管理する共和制である。
これはマルクスのオリジナルではなく、クロポトキンのようなアナーキストもアソシエーションを単位にする社会を理想としていた。それを支配する国家を否定する点も同じで、マルクスも国家の廃止を最終目的としていた。
この一節は、若きマルクスのユートピア的な側面を示すものとして知られているが、このモチーフは『経済学批判要綱』(資本論の草稿)にも受け継がれ、マルクスは「個人の自由な発展が今や自己目的となるのであり、したがって剰余労働を産出するための必要労働時間の短縮ではなく、一般に社会の必要労働の最低限への短縮が目的となる」と書く。
自由についての議論が労働日の話で終わるのは奇妙だが、先の『ドイツ・イデオロギー』の記述とあわせて考えると、これは未来社会とは必要に迫られて労働する社会ではなく、自由に活動する社会であり、自由の国の目的は自由時間の拡大(労働日の短縮)だという意味だろう。マルクスが未来社会を自由の国と呼ぶとき、その自由とはヘーゲルの観念的自由ではなく、自由時間の拡大だった。
マルクスの展望したアソシエーションは、資本家の専制を労働者の共和制に置き換えるものだった。自己労働にもとづく所有を超える所得を協同組合で分配する原則は、彼の宗教批判から一貫した思想だ。資本主義はキリスト教の世俗的な形態であり、マルクスの未来社会は資本という神を否定する無神論だからである。
『共産党宣言』でグローバル資本主義がローカルな旧秩序を徹底的に破壊した延長上に理想の社会を展望した彼は、ラディカルな「市場原理主義者」だった。彼の論理は一貫している。それは徹底的に自由で効率的な生産を行なえば、分配の平等は問題ではなくなるということだ。
マルクスの構想した未来社会では国境もなくなるので、全世界の労働者が自由に地球上を移動することになり、日本とバングラデシュの労働者の「平等」は問題になりえないし、それを再分配する政府も存在しない。
このようにマルクスの思想は(現実的かどうかはともかく)意外にモダンであり、今なお乗り超えられていないベンチマークである。通俗的な誤解を清算し、一人の思想家として彼を再評価することは、資本主義を考え直す上で避けて通れない。
自由の国は、必要と外的目的性に迫られて労働することがなくなったとき、初めて始まる。だからそれは当然のこととして、現実の物質的生産の領域の彼方にある。この国の彼方に、自己目的としての人間の力の発展が、真の自由の国が始まる。それは必要の国をその基礎としてのみ花咲きうるにすぎない。労働日の短縮がその根本条件である。(『資本論』第3巻48章)
マルクスが資本主義の彼方に想定したのは、資本家による生産手段の私的独占を廃止し、労働者が共有するアソシエーションだった。彼はそれを共和制にたとえた。資本主義が独裁だとすると、アソシエーションは労働者が生産を管理する共和制である。
これはマルクスのオリジナルではなく、クロポトキンのようなアナーキストもアソシエーションを単位にする社会を理想としていた。それを支配する国家を否定する点も同じで、マルクスも国家の廃止を最終目的としていた。
マルクスはラディカルな自由主義者
若きマルクスは資本主義において労働は疎外されていると考え、労働と遊びはほんらい別ではなかったと考えた。彼は(エンゲルスとの共著)『ドイツ・イデオロギー』で「分業と私的所有は同じことの表現である」と規定し、自然発生的な分業を止揚することをコミュニズムの目標とし、未来のイメージを次のように描いた。コミュニズムの社会においては社会が生産の全般を規制しており、まさしくそのゆえに可能になることなのだが、私は今日はこれを、明日はあれをし、朝は狩をし、午後は漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする――猟師、漁夫、牧人あるいは批判家になることなく、私の好きなようにそうすることができるようになるのである。
この一節は、若きマルクスのユートピア的な側面を示すものとして知られているが、このモチーフは『経済学批判要綱』(資本論の草稿)にも受け継がれ、マルクスは「個人の自由な発展が今や自己目的となるのであり、したがって剰余労働を産出するための必要労働時間の短縮ではなく、一般に社会の必要労働の最低限への短縮が目的となる」と書く。
自由についての議論が労働日の話で終わるのは奇妙だが、先の『ドイツ・イデオロギー』の記述とあわせて考えると、これは未来社会とは必要に迫られて労働する社会ではなく、自由に活動する社会であり、自由の国の目的は自由時間の拡大(労働日の短縮)だという意味だろう。マルクスが未来社会を自由の国と呼ぶとき、その自由とはヘーゲルの観念的自由ではなく、自由時間の拡大だった。
マルクスの展望したアソシエーションは、資本家の専制を労働者の共和制に置き換えるものだった。自己労働にもとづく所有を超える所得を協同組合で分配する原則は、彼の宗教批判から一貫した思想だ。資本主義はキリスト教の世俗的な形態であり、マルクスの未来社会は資本という神を否定する無神論だからである。
「富の爆発」が分配の問題を解決する
マルクスは分配の平等を否定し、グローバル資本主義がローカルな「部族社会」を破壊した延長上に労働者の共和制を展望した。ハイエクもフリードマンも最小限度の所得再分配は必要だと認めたが、マルクスはそれも認めなかった。自由の国では資本主義の「無政府性」を解決し、労働者が計画的に生産することによって爆発的な富が実現すると考えていたからだ。『共産党宣言』でグローバル資本主義がローカルな旧秩序を徹底的に破壊した延長上に理想の社会を展望した彼は、ラディカルな「市場原理主義者」だった。彼の論理は一貫している。それは徹底的に自由で効率的な生産を行なえば、分配の平等は問題ではなくなるということだ。
マルクスの構想した未来社会では国境もなくなるので、全世界の労働者が自由に地球上を移動することになり、日本とバングラデシュの労働者の「平等」は問題になりえないし、それを再分配する政府も存在しない。
このようにマルクスの思想は(現実的かどうかはともかく)意外にモダンであり、今なお乗り超えられていないベンチマークである。通俗的な誤解を清算し、一人の思想家として彼を再評価することは、資本主義を考え直す上で避けて通れない。



