天使はなぜ堕落するのか―中世哲学の興亡中世哲学といえば、誰も原典は読んだことのないマイナーな世界で、「針の上で天使が何人踊れるか」といった煩瑣な論争を続けていただけと思われているだろう。しかし本書も強調するように「近代」を特権化することこそ近代に特有の偏狭な歴史観で、「中世」と呼ばれた時代と近代は連続している。特に哲学には、本質的に「進歩」なんてなく、ある意味では古代ギリシャから人類は同じ問題を論じてきたのだ。

アウグスティヌスやトマス・アクィナスの時代の哲学はキリスト教神学の理論的体系化という傾向が強かったが、後期の中世哲学の主要なテーマは、普遍論争として知られる本質と個物の関係だった。これは神学論争ではなく、現代の論理実証主義とポストモダン的な懐疑主義の関係に似ている。前者の代表がドゥンス・スコトゥスであり、後者の代表がウィリアム・オッカムである。

近代科学がキリスト教に反抗して生まれたというのは誤解で、むしろ近代科学はキリスト教から生まれたといったほうがいい。宇宙に普遍的な法則が存在するという信念は、キリスト教以外の文明圏にはないもので、現代の科学でも証明されてはいない。今まで観測されたすべての宇宙は物理学で説明できるが、説明のつかない宇宙がどこかに存在する可能性は否定できない。

このような普遍=神への信仰が近代科学を生んだ。加速度運動を初めて数量的に観測したのは、ガリレオでもニュートンでもなく、オクスフォード大学のスコトゥスの弟子だった。彼らはすでに14世紀に、加速度と到達距離の関係を数学的に理解していた。最近のインテリジェント・デザインも主張するように、自然の規則性は神が宇宙を完璧に設計した証拠だったのである。

しかしスコトゥス学派は、自然の規則性を観測しても、その背後に個物を超えた<実在>が存在することを証明できなかった。神は自然を超えた存在なので、いくら自然を観測しても神には到達できない。それなら、そんな実在(神)は想像の産物ではないのか、と考えたのがオッカムである。この意味で彼はデカルト以降の近代哲学の始まりであり、ヒューム的な懐疑論の元祖でもある。

普遍論争は唯名論の勝利に終わったと思われているが、現代的にみて興味あるのは実在論のほうである。クーン以降の科学哲学(これはオッカムの直系だ)が明らかにしたように、科学と宗教に本質的な違いがないとすれば、人々が特定の宗教(あるいは理論)を信じるのはなぜなのか。それは単なる慣習ではなく、何かの必然性があるのではないか。パースは「アブダクション」と名づけた発見の論理の元祖をスコトゥスに求めたが、それは今も科学哲学のフロンティアなのである。