
私の修士論文も、全面的に本書に依拠して書いた。資本主義を契約理論によって明晰に分析し、なぜ20世紀前半に垂直統合型の企業が支配的になり、それが20世紀後半に凋落したかという歴史的事実を、本書の理論を使えば数学的に証明できるからだ。この理論の原型はHart-Mooreだが、これは数学的に高度なので、本書の2人ゲームの設定で十分である。
企業はなぜ存在するのか、というのは1937年のコースの論文以来の問いである。1970年代には、それを「情報の非対称性」によって説明する理論が流行したが、これは企業の存在根拠にはならない。情報が非対称でも、将来にわたる完全なインセンティブ契約が結べるなら、すべての社員を契約社員にして、資本設備もすべて借りればいいからである。なぜ企業は資本を所有し、労働者を雇用するのだろうか?
それは、完全な契約を結ぶことができないからだ。投下した資本がサンクコストになる場合、事後的にを行なうことができる。たとえばアルバイトが仕事を半分やってから「賃金を2倍に上げないと残りの仕事はしない」と再交渉を始めると、資本家は応じざるをえない。逆に労働者も、いつ契約が解除されるかわからないと安心して仕事ができない。
このような問題を解決するために、所有権(残余コントロール権)の配分が重要になる。労働者をアルバイトではなく長期的に雇用すれば、労働者が再交渉した場合には資本家は彼を解雇できるので、労働者は命令に従わざるをえない。つまり資本家が資本を所有し、労働者に命令できるコントロール権をもっていることが、資本主義の本質なのだ。
かつて「企業の中心は人だから、労働者を中心にする日本の『人本主義』がすぐれている」という議論があったが、これは間違いである。資本主義は、資本の所有権によって間接的に労働者をコントロールする制度なのだ。労使が協調して意思決定するシステムは、高度成長期の日本のように企業が順調に成長しているときはいいが、企業が危機に陥ったときは、何も決まらなくなる。国政が混乱したとき「政治主導」が必要なように、経済が混乱したときは「株主主導」で企業を再編成するシステムが必要である。
追記:アマゾンの表記は不正確だ。正確には『企業 契約 金融構造』である。
それは、完全な契約を結ぶことができないからだ。投下した資本がサンクコストになる場合、事後的にを行なうことができる。たとえばアルバイトが仕事を半分やってから「賃金を2倍に上げないと残りの仕事はしない」と再交渉を始めると、資本家は応じざるをえない。逆に労働者も、いつ契約が解除されるかわからないと安心して仕事ができない。
このような問題を解決するために、所有権(残余コントロール権)の配分が重要になる。労働者をアルバイトではなく長期的に雇用すれば、労働者が再交渉した場合には資本家は彼を解雇できるので、労働者は命令に従わざるをえない。つまり資本家が資本を所有し、労働者に命令できるコントロール権をもっていることが、資本主義の本質なのだ。
かつて「企業の中心は人だから、労働者を中心にする日本の『人本主義』がすぐれている」という議論があったが、これは間違いである。資本主義は、資本の所有権によって間接的に労働者をコントロールする制度なのだ。労使が協調して意思決定するシステムは、高度成長期の日本のように企業が順調に成長しているときはいいが、企業が危機に陥ったときは、何も決まらなくなる。国政が混乱したとき「政治主導」が必要なように、経済が混乱したときは「株主主導」で企業を再編成するシステムが必要である。
追記:アマゾンの表記は不正確だ。正確には『企業 契約 金融構造』である。
現在の企業は、その存立の条件を深く社会に負っていると考えられます。つまり、私企業の個人営利的な事業性から、地球環境、社会環境の保護、あるいは、消費者保護という社会公共的な立場を重視する公益的な事業性に、その性格を深めています。
池田氏の解説は、企業本来の筋道を説いたものです。ですから、企業の存在理由の進化を考え合わせると、私企業の個人営利性と社会公共性を企業の成長的存続という前提で、新たな21世紀の社会建設への参加という観点から見直すことが求められているように思います。だから、株主重視の欧米型資本主義や企業ガバナンス重視の日本型資本主義も、資本主義が成熟した段階で、一定水準の企業文化として平準化し、向かうところは同じ、つまり、21世紀の社会建設の機能を受け持つ一分子にいかになるかということでしょう。
勿論、そこでは企業の民主化が問われることになるが、いかに立派な理由を考えようと、企業は利益を出さなければ存続できないから、企業の民主化は一定の枠内でのことという制限がある。ですから、被雇用者の立場の労働側が企業ガバナンスに関与することは許されず、不当な企業側の要求は拒否できるにしても、個人の被雇用者の立場は労働権や人権の面で一定の保障があるならば、大筋で企業の経営方針には従うことを強いられる。これは最低限の鉄則。その上で、病気や事故等の予防のための労働環境の整備や万が一の生活保障を考えることになります。勿論、これは原則であり、中小企業のような劣悪な労働環境の職場では、このような問題を、新たに労働人権の保障という観点から、国が考えなければならない問題になる。そこに、福祉社会の成熟の真の鍵があると考えます。