無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社ライブラリー (150))NHKの「無縁社会」という特集が、大きな反響を呼んでいるらしい。グーグルで検索すると、129万件も出てくる。私もちょっとそれにコメントしたら「変節したのか」とか、逆に「やっとお前も市場原理主義の弊害に目覚めたか」といったコメントが寄せられた。それぐらい、この問題は日本人の琴線に触れるのだろう。

人間は生物学的には個体として生まれ、個体として死ぬ「無縁」な存在だが、それは個体群のメンバーとしてしか生存できない。そこには、個体としての生存と集団防衛の矛盾という群淘汰の問題がある。このパラドックスによって多くの悲劇が生まれ、多くの文学が書かれてきた。

最近では、この問題は社会科学でもコミュニタリアニズムとかソーシャル・キャピタルなどという形で、学問的に論じられるようになった。鳩山首相の「新しい公共」円卓会議の座長になった金子郁容氏は、私の博士課程の指導教官だが、彼もご存じのようにこれは人類の永遠の問題で、簡単な答はない。

この問題は、ともすると「共同体にがんじがらめになっている日本人をいかに個として自立させるか」という近代主義的な形で設定されるが、本書はこの前提を疑い、日本人の中には共同体から自由な無縁の伝統もあったと主張する。公界や楽は西洋の「アジール」と似ていたが、後者が都市国家として近代社会のエンジンになったのと対照的に、日本の楽は領主に利用されたあげく弾圧された。

こうした網野の説が、実証的な歴史学の検証に耐えるのかどうかは不明である。人口の圧倒的多数が農民だったという事実は否定できない。網野の愛する無縁の民は、多くの芸能や文化を残したかもしれないが、一貫して少数派だった。むしろ彼の関心は、個と全体が分化する以前の原始共同体にあったのかもしれない。「網野の原体験はザスーリチ書簡なんだよ」と、彼の甥である中沢新一氏はいっていた。

人間は個体であると同時に集団の部品であり、ノマドであると同時に定住民でなければならない。この二律背反は、どんな社会でも解決できない。NHKが繰り返している情緒的な「無縁社会」キャンペーンは、へたをすると「伝統的共同体の再建」を主張する老人新党や厚労省の家父長主義に利用されて、もともと無縁な(そしてそれを望む)ノマドの自由を奪う結果になるのではないか。