ネット上には、検察や記者クラブを批判して「反権力」を気取る手合いが多いようだが、ネット世論のいい加減さはマスコミ以上だ。たとえば上杉隆氏は「日本は推定無罪の原則を持つ法治国家であるはずだ。だが、いまやそれは有名無実化している。実際は、検察官僚と司法記者クラブが横暴を奮う恐怖国家と化している」と検察とマスコミを攻撃しているが、小沢氏を有罪と推定したメディアなんか存在しない。問われているのは刑事責任ではなく、政治責任である。胆沢ダムをめぐる談合の仕切りが収賄罪に問えなくても、政治的に責任がないわけではない。

むしろ小沢氏以外の政治家のスキャンダルが闇に葬られてきたことが問題なのだ。大物政治家の事件は、2004年の日歯連事件以来6年ぶりだが、これは一審では無罪判決が出て批判を浴びた(最高裁では有罪)。判決も指摘する通り、このときの「本筋」は自民党の元宿事務局長だったが、彼を逮捕すると「自民党の政治家の半分ぐらい逮捕しなければならない」という政治的配慮で、無関係な村岡兼造氏がスケープゴートにされた。

検察が政治家の疑惑を立件できなくなったのは、贈収賄が巧妙になり、裏金を「洗浄」して表の金にする操作が発達したためだ。こうしたテクニックを高度に駆使したのが小沢氏であり、本筋の収賄で立件することはもともと不可能だった。したがって政治資金規正法という「形式犯」でやらざるをえなかったのだ。堀田力氏はこう説明している:
贈収賄事件を立件できる可能性は、20件に1件程度だろう。贈収賄の立件ばかりに頼っていたのでは、いつまでたっても政治とカネの問題はきれいにならない。だから、ザル法と言われた政治資金規正法の改正を進め、カネの出所を明らかにし、贈収賄を未然に防ぐ堤防の役割を託したのだ。[・・・]隠したくなるような類の政治資金を授受するのはやめてくれ、というのが政治資金規正法の趣旨だ。政治資金の透明化を図る決め手の法律なのだ。それを形式犯に過ぎないと批判するのは、筋違いで詭弁だ。
日本の検察はこうしたハンディキャップを背負っているため、政治家との闘いは非常に困難でリスクが大きい。今回も「小沢一郎」と「小澤一郎」の署名がある偽装融資の文書というれっきとした証拠があるのに、最高検は政治的配慮で起訴を見送ってしまった。批判されるべきなのは、結果として不起訴になったことではなく、証拠があるのに裁判で争わない最高検の姿勢である。

公平に見て、今回の事件の捜査は日歯連に比べればまともだったと思う。メディアの報道も、新聞より「小沢逮捕」を毎週のように連発した週刊現代やワイドショーのほうが悪質な人権侵害だ。もちろん検察の暴走はよくないが、公共事業の「箇所づけ」で自民党のような利益誘導に回帰している民主党の暴走のほうが深刻な問題であり、その司令塔が小沢氏だ。何が「巨悪」かを見誤ってはならない。