小沢一郎氏が不起訴になったのは、最高検の政治的判断だったようだ。これは検察の組織防衛上はやむをえないのかもしれないが、以前の記事でも書いたように、捜査当局が容疑を裁判で争わないで事前に「さばく」ことで闇に葬ってしまうのは、司法の原則に照らすと疑問が残る。裁判で堂々と争うべきではなかったか。

ただ経済学的には、「政治とカネ」の問題はそれほど本質的ではない。民主主義の根本的な欠陥は、1人1票で決める制度がフリーライダーを生んでしまうことにある。1票によって選挙結果を変えることは不可能なので、当選した政治家を買収することが合理的な戦略になるのだ。この場合、贈賄のような危ない橋を渡る必要はなく、特定郵便局長会や連合のような組織票で政策を買うのが合理的である。今では水谷建設のような古典的な贈賄は珍しい。

小沢氏は、田中角栄から利益誘導の政治手法を受け継いだ。特に政府のカネを地方にばらまき、その受益者である土建業者の資金と票を選挙に利用するのが田中の開発した手法だ。これは1960年代までは一定の有効性があった。公共事業の配分には大きな利害がからむため、官僚機構でやると非常に時間がかかる。それを田中は、賄賂という「市場メカニズム」で効率的に処理したのだ。その典型が電波利権である。きょうの国会で自民党が問題にした「箇所づけ」も、田中的な政治手法の典型だ。

このように徹底的に業界の個別利益に迎合するのが、田中に学んだ小沢氏の政治手法であり、それが一時期までは有効だったことは確かだろう。しかしそういう小さな政治は、本当に今も有効なのだろうか。現代の有権者のほとんどは、そういう特殊権益とは無関係である。菅原琢氏は、郵政選挙で小泉首相を勝利させたのは、既得権に迎合する小さな政治を拒否する国民の意思だったと分析している。

田中型の土建政治の最大の欠陥は、こうした政治手法ではなく、その結果である。人口の流出する地方を救うため、田中は中央のカネを地方に再分配するシステムをつくったが、これによって人口の都市集中が止まり、成長も止まった。経済成長の重要なメカニズムである労働人口の増加(都市集中)を抑制したことで、結果的に田中は分配すべき所得も減らしてしまったのだ。

日本経済を建て直すために必要なのは、田中以来つづいてきた「国土の均衡ある発展」を求める政策をやめ、労働人口を都市に集中することだ。小沢氏の継承した田中型政治の最大の弊害は、都市化の流れを止めたことにある。こうした土建政治と決別し、大きな政治を取り戻すことが日本の課題だろう。