
この種の問題の古典は、Rawlsである(訳本は絶版)。しかしSenも指摘するように、Rawlsの格差原理は「一国平等主義」だという批判をまぬがれない。たとえばバングラデシュの貧民とアメリカ人の所得格差はどうするのか、という批判には彼も降参した(『万民の法』)。派遣村的な平等主義は、普遍的に成り立たない「ローカルな正義」に過ぎないのである。
こうした「結果の平等」を全面的に否定し、公の領域の存在意義を最小国家に限定した、リバタリアニズムの古典がノージックである。これは80年代以降の「保守革命」のバイブルとなったが、これに対して彼の基準にしている合理的個人はフィクションで、現実の個人はコミュニティの一部として存在しているのだ、と批判したのがコミュニタリアニズムである。
たぶん首相の問題意識にもっとも近いのは、このコミュニタリアニズムだろう。その元祖はマッキンタイアで、アメリカの個人主義が人々の心を荒廃させていることを社会調査で分析したのがベラ-である。アメリカの「精神の荒廃」の原因を教育に求めたブルームは、ベストセラーになった。こうした論争をまとめたブックガイドが仲正昌樹氏の本である。同じ問題はパットナムを初めとするソーシャル・キャピタルについての議論でも論じられており、グライフはこれをゲーム理論で説明するものだ。
日本にはリバタリアンがほとんどいないので、コミュニタリアンも盛り上がらないが、故藤原保信の『自由主義の再検討』はこの種の問題をコンパクトに整理した入門書である。最近では、井上達夫氏が日本のコミュニタリアンの代表選手だろう。彼の専門書はテクニカルで、『自由論』はおしゃべり的すぎるが、首相の勉強会の講師にはいいのではないか――今はそれどころじゃないだろうけど。