ケインズが1921年に書いた『確率論』は最近、行動経済学の先駆としてあらためて注目されている(*テクニカル)。

この本でケインズは、サイコロの目のような客観的確率をモデルとする古典的な確率論に対して、直観によって決まる確率関係にもとづく確率論を構築し、社会科学の基礎にしようとした。この確率関係は知覚される命題と命題の論理的関係だが、主観的ではなく客観的な概念である。確率関係によって決まる結果は客観的に検証可能だが、その基礎となる直観は検証も反証もできない。この確率関係は意思決定の基礎となるもので、その選好の大小や無差別性によって人々の行動が決まる。

・・・と要約すると明らかなように、ここでは確率関係という無定義語が主観的でもなく客観的でもない奇妙な概念として使われている。この点を批判したのが、ラムゼーの「真理と確率」という論文だった。彼はケインズの確率論において(a)命題間の論理的な関係という客観的な概念と(b)命題についての確信の度合いという主観的な概念が混同されていることを批判し、後者のみを対象とする主観的確率論を公理論的に構成した。これがサヴェッジなどによって意思決定理論として発展し、ゲーム理論の期待効用最大化説として現在の経済学の基礎となっている。

しかしこのように体系化された主観的確率論は、個人の行動を説明する理論としては論理整合的だが、それにもとづいた行動が客観的な事実と一致する保証はない。両者が一致するのは、彼が完全な情報をもち、それをすべて計算して未来を予想できる場合にかぎられる。ラムゼーはこのように考え、人々が最適化を行なうことによって彼らの主観的確率と客観的確率が一致すると想定した。これが現在も教科書で教えられる新古典派経済学や「ラムゼーモデル」と呼ばれる動学的マクロ経済理論の基本的な発想である。

しかし現代の経済学者とは違ってラムゼーは、すべての人々がそのような完璧な最適化計算を行なうと考えることは、問題を単純化する方便にすぎないと考えていた。ケインズはラムゼーへの弔辞で、それを次のようにのべている:
そこで彼[ラムゼー]は「形式論理」とは別なものとして、「人間の論理」を考えるようになった。われわれの信念の度合いの基礎は、おそらく形式論理よりもむしろわれわれの知覚や記憶に類似した、われわれの人間的装備の一部なのである。[・・・]「人間的」論理学を、一方では形式論理学から、他方では記述的心理学から区別しようと試みることによって、ラムゼーはおそらく次の研究分野へ進もうとしていたのであろう。(強調は引用者)
ケインズが痛恨の念をもって惜しんだように、ラムゼーがこのテーマに挑んだ著作『真理について』は未完に終わり、彼は次の研究分野に進むことができなかった。彼の遺志をつぐかのようにケインズは『一般理論』で繰り返し不確実性に言及し、流動性選好やアニマルスピリッツなどの心理的な概念が彼の理論のコアなのだと強調している。だがその議論は残念ながら『確率論』のように混乱し、形式的な理論を欠いていたため、ながく無視されてきた。

しかし今われわれが直面しているテーマは、まさに経済学を「一方では形式論理学から、他方では記述的心理学から区別」する理論を構築することだろう。20代で現代の経済学の基礎理論をほとんど独力で構築し、ケインズとウィトゲンシュタインに決定的な影響を与えたラムゼーが、せめてケインズと同じぐらい生きていれば、行動経済学は半世紀ぐらい早く生まれ、もっと理論的に確固たるものになっていたかもしれない。われわれが1930年代に立ち返って学ぶべきものは、おそらく財政金融政策だけではない。

cf. 伊藤邦武『人間的な合理性の哲学』