おとといの記事のコメント欄で「日本はもう成長を追求するのはやめて、小国としてのんびりやろう」という考え方についての論争が続いている。私は個人的には、そういう路線が可能なら、それもいいと思う。最近、行動経済学で議論されているのは、新古典派経済学の前提としている富の最大化という目的関数が、人々の幸福とあまり関係がないという問題だ。特に日本はそのギャップが大きく、一人あたりGDPは(落ちたとえはいえ)世界で20位前後だが、幸福度は90位だ。
これに対して経済学者の普通の答は「幸福度なんて曖昧な基準はお遊びにすぎない」というものだが、そうだろうか。実は経済学の目的関数も、本当は富ではなく効用という曖昧なものだ。それが市場で需要として表明されることで富に変換されることになっているが、これでは市場では得られない「安心」とか「のんびり」といった価値への評価は計測できない。モノの需要が飽和する一方、環境や文化の重要性が高まってきた今日では、GDPとは別の指標で幸福を考えることも意味があるだろう。
たとえば客観的な指標の一つとして自殺率をとると、日本は東欧諸国と並んで第8位、主要国では断然トップだ。10万人あたり23.7人という自殺率は、イギリスやイタリアの3倍を超える異常なもので、日本人がかなり「不幸」であることを示唆している。Economist誌は、この背景には日本の「生き恥」をさらすことを好まない文化と、やり直しのきかない労働市場や企業システムの問題があるとしている。
こういう問題は「市場原理主義」をやめて、みんなに平等に分配したら解決するだろうか。税負担が大きくなると、金持ちやグローバル企業は日本から出て行くだろう。それによって成長率がゼロ以下になると、財政や年金の赤字をファイナンスすることは不可能になるので、財政が破綻する。結局、貧乏人と若者に負担がしわ寄せされ、ますます自殺は増えるのではないか。
こう考えると、GDPを大きくしないで分配を平等にしようという民主党の「高福祉・高負担」路線は、結果的にはもっと不平等で貧しい社会をもたらすおそれが強い。「成長戦略」を口先でいっている自民党のバラマキ路線も、実質的には同じだ。つまり日本には「小国主義」の政党が二つあるのだ。それも首尾一貫していれば立派な国家戦略だと思うが、それなら「みんな一緒に貧しくなろう」とマニフェストに正直に書いてほしいものだ。それに小国主義の政党は二つもいらないので、成長をめざす党が必要だ。今度の選挙は、そういう本当の二大政党になるまでの過渡的なステップだろう。
これに対して経済学者の普通の答は「幸福度なんて曖昧な基準はお遊びにすぎない」というものだが、そうだろうか。実は経済学の目的関数も、本当は富ではなく効用という曖昧なものだ。それが市場で需要として表明されることで富に変換されることになっているが、これでは市場では得られない「安心」とか「のんびり」といった価値への評価は計測できない。モノの需要が飽和する一方、環境や文化の重要性が高まってきた今日では、GDPとは別の指標で幸福を考えることも意味があるだろう。
たとえば客観的な指標の一つとして自殺率をとると、日本は東欧諸国と並んで第8位、主要国では断然トップだ。10万人あたり23.7人という自殺率は、イギリスやイタリアの3倍を超える異常なもので、日本人がかなり「不幸」であることを示唆している。Economist誌は、この背景には日本の「生き恥」をさらすことを好まない文化と、やり直しのきかない労働市場や企業システムの問題があるとしている。
こういう問題は「市場原理主義」をやめて、みんなに平等に分配したら解決するだろうか。税負担が大きくなると、金持ちやグローバル企業は日本から出て行くだろう。それによって成長率がゼロ以下になると、財政や年金の赤字をファイナンスすることは不可能になるので、財政が破綻する。結局、貧乏人と若者に負担がしわ寄せされ、ますます自殺は増えるのではないか。
こう考えると、GDPを大きくしないで分配を平等にしようという民主党の「高福祉・高負担」路線は、結果的にはもっと不平等で貧しい社会をもたらすおそれが強い。「成長戦略」を口先でいっている自民党のバラマキ路線も、実質的には同じだ。つまり日本には「小国主義」の政党が二つあるのだ。それも首尾一貫していれば立派な国家戦略だと思うが、それなら「みんな一緒に貧しくなろう」とマニフェストに正直に書いてほしいものだ。それに小国主義の政党は二つもいらないので、成長をめざす党が必要だ。今度の選挙は、そういう本当の二大政党になるまでの過渡的なステップだろう。