
その一つのヒントは、本書に書かれているGHQの占領統治だろう。ドイツが米ソに分割統治され、ナチの党組織と官僚機構が徹底的に解体されたのに対して、マッカーサーは軍と内務省は解体したが、それ以外の官僚機構と天皇制は温存する間接統治の方針をとった。このため、日本の政治システムは「民主主義」になったが、行政のインフラは明治以来かわらない官僚機構が握り続けたのである。
内務省がなくなったことで大蔵省の一元支配が強まり、財閥の解体で株主支配がなくなったため、戦時の「指定金融機関」がメインバンクとなって戦後復興のコアになった。軍は解体されたが、その厳格な年功序列の階級制度になじんだ500万人にのぼる復員兵が企業に入った影響も無視できない。戦後復興の総動員体制は統制経済の主体が軍からGHQに変わっただけだったから、むしろ軍隊型システムが適応していた。それは企業の目的が明確な高度成長期にもたまたま適していたため、戦後復興期を超えて続いてきた。
この意味で日本の経済システムは、数百年の伝統をもつ分散型のコミュニティで空白になっていた中心部に戦時体制の中央集権システムが組み込まれた、かなり特異なハイブリッド構造になっている。それが戦後の一時期、成功したことは事実だが、最近ではこの集権と分権の矛盾が顕在化している。中央官庁の非効率性が指弾され、「地域主権」が重要なテーマになっている現状は、このハイブリッド構造がうまく機能しなくなり、分散型システムに統一すべきだということを示しているのではないか。
本書はこのような経済システムを論じているわけではないが、著者も占領体制を論じるとき「東京裁判史観の否定」か「アジア諸国への謝罪」かといった、戦争の実態を知らない人々の「空中戦」ばかり繰り返されるのは不毛だと嘆いている。それよりも今の日本に残っている「戦時体制の遺伝子」を認識するほうが重要だろう。
私のオーナー会社で働いてきた経験から言って、軍隊組織が悪い組織形態とも思わない。今の日本のような危機にある時は、甲論乙駁の小田原評定をやっているより、決めて実行することが大事だと思う。ただ、オーナー会社では、時代に外れて、適応し直す時が大変だった。トップが時代から外れているのに、トップ交代をしようとしないからである。
しかし、この時でも最大重要事項はトップが決める時に、献策集団にどのような人材を配するかである。その意味で、不良債権問題を処理ができない、それまでの政府にとって代って政権を担った小泉純一郎氏のリーダーシップは、見事であったと思う。
自身大したこともできない某静香氏などは、ヒットラーだと言っていたが、危機は強烈なリーダーシップを抜きにしては突破できないだろう。だから、リーダーシップの形態が問題ではなく、何をやるかが問題である。
慶応大で同級生だった栗本慎一郎氏が、郵政選挙のときTVに出て、いかに小泉氏が馬鹿であったかを述べていたが(実に節操のない男だ)、その利口でもない男が不良債権処理ができたのは、献策集団にまともな人を任じ丸投げしたからだろう。大臣への竹中平蔵、遠山敦子、川口順子氏らの民間人起用が象徴的であり、後続の安倍内閣、麻生内閣のお友達内閣とは、歴然たる違いが結果に出ている。(このマネジメントスタイルが評価されていな点も気の毒だと思う)
現在のグローバル環境不適合症候群で悩む日本では、軍隊的中央集権が温存されているのを生かして大きく舵を切り、適応作業が済んでから分権に変化していけばよいと思うのだが、舵の切る方向が間違っているだけに、なんとも言えない虚無感が漂うのである。