
前の記事でも書いたように、『プロ倫』には事実誤認が多い。フランクリンは、カルヴィニストではなく理神論者(Deist)だと自分で書いている。イギリスでも資本家にはアングリカンが多く、カルヴィニストは少数派だった。またウェーバーによれば、資本主義が西欧で生まれたのは19世紀ということになっているが、最初の株式会社ができたのは17世紀であり、イギリスで財産権の概念が公認されたのは13世紀だ。
ウォーラーステインの見方でいえば、資本主義的な近代世界システムは16世紀に始まった。その師匠ブローデルは、17世紀以前の地中海地方(もちろんカトリック地域)における資本主義の発達を詳細に描いたあと、ウェーバーの議論をこう評価する。「カルヴァンは、いかなる門をも力ずくで押し開いたのではない。門は久しい以前から開かれていたのである」。
近代資本主義が何によって生まれたのかというのは、いまだに決着のつかない難問である。その答はたぶん一つではなく、多くの偶然が重なったのだろう。その一つとしてカルヴァン派の教団組織が株式会社の成立に貢献した可能性はある、とBermanは書いているが、せいぜいその程度が現在の宗教史の教科書でのウェーバーの扱いである。
だから『プロ倫』を『こころ』と並べて人生論を語る姜尚中氏の戦略は、ある意味では正解だ。どっちも「お話」として聞く分には害はないが、「本来の資本主義精神」なるものをでっち上げて「新自由主義の強欲」を批判する陳腐なお伽話はやめてほしいものだ。