今週の経済財政諮問会議で配布された民間議員の提言は、これまでの成長重視路線から「安心保障政策」へと大きく舵を切っている。国民背番号(安心保障番号)や負の所得税(給付つき税額控除)の提案は注目されるが、全体として所得再分配の話ばかりで「活力との両立」に配慮された形跡はない。

安心・安全な社会にしようという話に反対する人はいないが、安心はタダではない。すべての失業者を安心させるのは、ある意味では簡単だ。在職中の賃金と同じ失業手当を、政府がすべての失業者に永遠に支給すればよい。これが問題の解決にならないことは明白だろう。重要なのは安心を最大化することではなく、そのメリットとコストのトレードオフの中から何を選ぶかという意思決定である。

「非正規等の失業者が経済危機の荒波を最も受けている」ことは事実だが、彼らの状況はこの提言にいう「生活支援給付」によっては解決しない。新卒で一括採用し、そこで失敗した労働者には一生、正社員になる道が閉ざされてしまう閉鎖的な労働市場を変えないかぎり、失業手当や生活保護の増額はバラマキにしかならない。

この提言で言及している「ジョブカード」も、こうした問題を改善する第一歩としては評価できるが、参加企業が少ないため普及していない。企業が労働者の転職に有利な情報を提供すると、彼の「裏切り」の確率が高くなるからだ。日本の企業は転職のリスクを最大化することによって労働者を拘束するタコ部屋構造になっているので、そのリスクを下げる情報を提供する企業は、よほどのお人好しである。

私が「終身雇用を廃止しろと主張している」などというばかげたコメントが多いが、すべての労働者に終身雇用を保障できれば理想的だ。しかし残念ながら資本主義はきわめて不安定なシステムなので、すべての人に絶対安全を保障することはできない。たとえば中高年のノンワーキング・リッチに安心を保障すると、そのコストは若年層のワーキング・プアにしわ寄せされるのだ。ところが日本では、この社会的コストが目に見えないので、安全はタダだと思い込み、日本的雇用慣行を美化する人が実に多い。たとえば中谷巌氏は、こうのべる:
「改革」は必要だが、それはなんでも市場に任せておけばうまくいくといった新自由主義的な発想に基づく「改革」ではなく、日本のよき文化的伝統や社会の温かさ、「安心・安全」社会を維持し、それらにさらに磨きをかけることができるような、日本人が「幸せ」になれる「改革」こそ必要であると考えたわけである。
彼は安心・安全が「日本のよき文化的伝統」だと本気で思っているのだろうか。「日本的システム」と称されるものが、戦時体制や戦後の高度成長期に形成されたものだという共同研究に彼も参加したはずだが、もう忘れたのだろうか。終身雇用は日本の「文化的伝統」ではなく、高度成長期の大企業でのみ可能だった特殊な慣行にすぎない。中谷氏が強調する「格差」の原因は「新自由主義」ではなく、90年代に終身雇用が維持できなくなった状況で、中高年社員の安心のコストを若年層に転嫁した結果なのだ。

金融工学の教科書の最初に書いてあるように、市場でリスクをゼロにすることは可能でも必要でもない。必要なのは、リスクを社会全体に分散し、すべての人がリスクとリターンの望ましい配分を実現することだ。そのために必要なのは、生産要素を効率的に配分する柔軟な労働市場と資本市場である。規制を撤廃しても、長期雇用は残る。欧米企業でも、幹部社員は長期雇用である。それを超えて政府が安心を強制するとリスクの配分がゆがみ、現在のような悲劇が起こるのだ。

昨今のインフルエンザをめぐる過剰反応や薬のネット販売の規制など、社会全体が「安心・安全」を理由にして過剰規制の方向に流れ、既得権を護持する動きが強まっている。こういうなかで諮問会議がそれに迎合し、活力を無視して安心だけを強調し、日本経済を「リスク最小・リターン最小」の特異解にミスリードすると、それによる長期停滞のコストは国民全体が負担する結果になる。

こうした考え方は経済学者の常識であり、諮問会議のまとめ役である吉川洋氏がそれを知らないはずはない(NIRAの提言をまとめたのは彼の同僚だ)。ケインズ派だった吉川氏は、小泉内閣では構造改革派に転向したが、麻生内閣ではバラマキ路線に先祖返りしたのだろうか。