Becker-Posner blogで、保守主義をめぐる議論が盛り上がっている。先週の記事で、ベッカーとポズナーが「保守主義は危機的状況にある」として、ブッシュ政権以来の保守主義の混乱を批判したのに対して、山のようなコメントが寄せられた。日本では「経済危機で新自由主義は破綻した」といった話が流行しているが、彼らの批判はもちろん、そういう通俗的な議論ではない。

保守主義の基礎にある理念は、アメリカ建国以来の国家への懐疑であり、それは18世紀のヒュームやアダム・スミスから継承された古典的自由主義と一体だ。しかしブッシュ政権のイラク戦争などの対外拡張主義や、同性婚の禁止などのキリスト教原理主義は、保守主義の伝統に反する介入主義である。このように共和党が、建国以来の伝統をを逸脱してポピュリズムに走ったことが、現在の危機的状況をもたらした――というのがベッカーの批判だ。

これに対してイースタリーは、「ベッカーは自由主義と保守主義を混同しているのではないか」と批判した。ハイエクは「私は保守主義者ではない」として、貴族の既得権を擁護するイギリスの保守党(Tory)を批判し、自分は"old Whig"だとのべた。Whigというのは自由党で、保守主義の元祖として知られるエドマンド・バークも自由党の政治家だったし、ケインズも自由党員だった。このようにアメリカの保守主義は、建国の理念である自由主義を保守するもので、イギリスの保守党とは違うが、両者に共通するのは国家の介入から個人の自由を守る懐疑主義である。

しかしアゴラにも書いたことだが、大きな内戦や植民地支配を経験しなかった日本では、権力としての国家を疑う意識がなく、国民を守る家父長として国家をイメージする傾向が強い。特に山口二郎氏五十嵐仁氏に代表される万年野党は、政府を「大資本に奉仕する悪い奴」として批判するくせに、弱者を救済するときは同じ政府を「慈愛に満ちた保護者」として描く。鳩山由紀夫氏の「友愛」が、そういう家父長的な国家をめざすものだとすれば、霞ヶ関の改革は闘わずして敗れたも同然である。