この不況で問われているのは、日本人の働き方だと思う。日本企業が戦後の一時期、成功を収めた一つの原因は、農村共同体が解体したあと、その行動様式を会社に持ち込んでコミュニティを再構築したことにある。その労働倫理の原型は明治期より古く、江戸時代に市場経済が農村に浸透したころに始まるといわれる。速水融氏は、これを産業革命(industrial revolution)をもじって勤勉革命(industrious revolution)とよんだ。

イギリスの産業革命では、市場経済によって農村が工業化され、資本集約的な産業が発達したのに対して、日本では同じころ逆に市場が農村に取り込まれ、品質の高い農産物をつくる労働集約的な農業が発達した。二毛作や棚田のように限られた農地で最大限に収量を上げる技術が発達し、長時間労働が日常化した。そのエネルギーになったのは、農村の中で時間と空間を共有し、家族や同胞のために限りなく働く勤勉の倫理だった。

日本が非西欧圏でまれな経済発展をとげた一つの理由が、この勤勉であることは疑いない。それを支えていたのは金銭的なインセンティブではなく、共同作業に喜びを見出すモチベーションだった。サラリーマンは命令されなくても深夜まで残業し、仕事が終わってからも果てしなく同僚と飲み歩いてコミュニケーションを求める。こうした濃密な人間関係によるコーディネーションの精度の高さが、多くの部品を組み合わせる自動車や家電で日本企業が成功した原因だった。

しかしこういう「すりあわせ」の優位は、製品のモジュール化やグローバルな水平分業によって失われつつある。海老原嗣生氏によれば、単純作業のモジュール化によってブルーカラーを正社員として雇用する意味がなくなり、中国などに生産拠点を移転する動きが強まっている。他方ではITによって効率を上げるシステムの需要が増え、それを設計できる知識労働者は供給不足になっている。これが労働需給のミスマッチを生み、所得格差を拡大しているという。

このようにskill-biased technological changeによって所得格差が拡大するのは、IMFも指摘するように世界的な傾向だが、日本は労働市場の流動性が低いため、これまでそういう傾向はみられないといわれてきた。それが非正社員の増加という形で顕在化してきたとすれば、この問題を「かわいそうなワーキングプアを救え」という話に矮小化するのは間違いで、グローバルな分業構造の変化と考える必要がある。

もはや会社のために人生を犠牲にしても、それが報われる保証はない。つぶしのきかない文脈的技能しかもたないまま労働市場に放り出されたら、たちまちホームレスに転落だ。与えられた仕事に「額に汗して働く」のはもうやめ、主体的に仕事を選んではどうだろうか。起業というのは、多くの人が誤解しているように金もうけではなく、自分の好きな仕事をする生き方なのだ。

それはGDPベースでは高い成長率を実現しないかもしれないが、人生の目的は経済成長ではなく幸福だ。日本国民の一人あたりGDPはここ50年で7倍になったが、幸福度は2.9から2.6に低下した。もうそろそろ会社に売り渡した時間を取り戻し、自分の人生を自分で決めてはどうだろうか。30日のシンポジウムは、そういう新しい働き方を考える場にしたい。

お知らせ:シンポジウムの申し込みは締め切りました。多くの申し込み、ありがとうございました。