
しかし本書の議論は荒っぽい。これまでにも書いたように、著者の批判する「終身雇用制」などというものは、制度としても実態としても存在しない。労働経済学や労働法の専門家は、このミスリーディングな用語を避けて、長期雇用という言葉を使うのが普通だ。またサラリーパーソンを奴隷と同一視して、南北戦争が「北部で奴隷を抱えるコストを雇用主が負担しきれなくなった」ために起こったというのもおかしい。北部では、奴隷制をとる州はほとんどなかったからだ。
古代ローマで奴隷が解放されたのは、奴隷の価格が上がったことが原因だった。奴隷を買うより、賃労働者として労働サービスを借りるほうが安くなったからだ。また労働生産性が報酬に反映しない奴隷より、小作人のような形でインセンティブを与えたほうが生産性が上がるので、中世ヨーロッパでは古代のような奴隷制は採用されなかった。しかしアメリカの奴隷制は、フォーゲルも指摘するように効率が高かったので、むしろ南部諸州が憲法を改正して全米で奴隷を合法化しようとしたことが南北戦争の発端だった。
ただ日本のサラリーパーソンが事実上の奴隷だというのは、当たっている。法的な建て前では、彼(女)は雇用契約を離脱する自由があるので奴隷ではないが、実際には正社員が転職するオプションはきわめて狭いので、定年まで会社にコントロールされる。つまり会社が事実上、彼(女)の人的資本を所有しているのだ。これが日本の会社が一時期、高い効率性を発揮した原因である。社員に外部オプションがなければ、効率の低下をまねく交渉問題が発生せず、彼(女)は命令しなくても「ワークライフ・バランス」を犠牲にして働くからだ。
現状は古代ローマ末期のように、社畜という事実上の奴隷制のコストが高くなりすぎた状況に近いのではないか。それは社畜にとってリスキーなだけではなく、企業にとっても事業効率化の足枷になっている。9割以上の人々が疑問を抱いている雇用慣行を政府が変えようとせず、野党まで規制強化を求める状況は、社会主義の転覆前夜を思わせる。私のような霞ヶ関の嫌われ者が言ってもきいてもらえないが、著者のように政府の審議会をたくさん掛け持ちしている人気者が、本書のようなわかりやすい切り口でおじさまたちを啓蒙すれば、「会社主義」が崩壊する可能性もあるかもしれない。まだ日本に希望を捨てるのは早い(と思う)。