きのうの記事は戦前までのことしか書かなかったが、戦前に日本的労使関係の原型ができたとはいえ、「終身雇用」が成立したわけではない。通説のおさらいだが、拙著の第3章の内容を紹介しておこう。

終戦直後の労使関係を特徴づけるのは、激しい生産管理闘争だった。これはマルクスの「生産の社会的管理」の理念を追求し、労働者が経営に参加して企業をコントロールする権利を求めるものだった。1940年代の読売争議、東芝争議などでは経営側が一部譲歩したが、占領政策の転換によって、50年代には「総資本」が「総労働」を弾圧する方針に転換し、その頂点ともいえる1960年の三井三池争議で労働側が敗北し、労使対決の時期は終わった。

こうした争議の主要な争点は、解雇反対闘争だった。つまり50年代までは、解雇はかなり自由に行なわれていたわけだ。10年以上勤続の労働者の比率も1957年で15.8%と、戦前とほとんど変わらない。しかし解雇がこうした労使紛争を引き起こして高くつくことを学んだ経営者は、労使協調的な「第二組合」をつくって階級闘争的な産別(共産党系)の勢力をそぐ方針をとった。こうした御用組合のナショナルセンターが、総評(現在の連合)である。さらに右寄りの方針をとる同盟とともに、こうした労使協調路線によって長期雇用(いわゆる終身雇用)の慣行が確立した。

高度成長期には経済の規模が拡大したので、雇用の変化には配置転換で対応するしくみが確立したが、70年代の石油危機が大きな転機となった。激しいインフレに対して、経営側は労組に賃上げ抑制への協力を求める代わりに雇用の維持を約束し、出向・転籍によって雇用調整を行なうシステムができた。そのような努力をしないで整理解雇を行なうことは認めないという判例も、この時期に「整理解雇の4要件」として確立した。

このように系列の中で過剰雇用を解決するしくみが、「日本的経営」の優位性の大きな源泉だった。欧米の職能集団と労組によって縦割りになっている組織では、一つの商品が売れなくなってもその部門の労働者を他に転用できず、労使紛争が長期化する。これに対して日本では、労働者を解雇しない代わり転勤の辞令は絶対で拒否できないという規範が成立したのである。

しかし90年代の長期不況では系列内で過剰雇用を抱えきれなくなり、雇用のバッファを非正社員に求める傾向が強まった。「派遣労働の規制緩和が格差の原因だ」という類の話は原因と結果を取り違えたもので、派遣労働者は非正社員の8%にすぎない。大部分は契約社員であり、これは規制緩和とは無関係に90年代前半から増えている。

要するに、需要の変動に対応して雇用調整を行なうメカニズムが、解雇(50年代)、配置転換(60年代)、出向(70年代)、非正社員(90年代)と変化してきたのである。このうち出向までは日本的雇用慣行の枠内の調整だが、90年代以降はそうした調整メカニズムが機能しなくなっているため、雇用調整が円滑に行なわれない。これが日本経済の長期停滞が今日まで続く一つの原因である。

この労働需給のミスマッチを長期化させている最大の原因が、時代遅れの雇用規制と司法判断だ。労働基準法第6条では「中間搾取の排除」として「何人も、法律に基いて許される場合の外、業として他人の就業に介入して利益を得てはならない」と定めている。職業紹介業や人材派遣業を「中間搾取」として敵視する規制は、戦前に「口入れ屋」がピンハネを行なった時期のものであり、労働移動を阻害している。

労働市場が成熟していなかった時期に、搾取とよばれるような実態があったことは事実だろう。しかし現代の最大の問題は賃金の分配ではなく、正社員と非正社員の身分格差が固定し、正社員も社内失業しているという人的資源の浪費である。80年代まではかろうじて雇用調整のバッファとなっていた系列構造が崩壊した今は、労働者の選択肢を広げる多様な雇用契約が必要だ。雇用不安を労使問題と考えているかぎり、解決は不可能である。それは企業システム全体の問題なのだ。