昨今の非正規労働者をめぐる議論では、終身雇用の正社員こそ理想の雇用形態で契約労働者は変則的な好ましくない形態だという前提があるが、これは根拠のない思い込みにすぎない。以前の記事でも書いたように、企業が労働者を直接雇用する形態は請負制度より新しく、垂直統合型の企業組織で熟練労働者を囲い込むためにできたものだ。このような自由を奪われた「社畜」を理想だと思い込んでいるのは奴隷根性である。

直接雇用のもう一つの意味は、農村から出てきた労働者を企業のコミュニティに組み込んで労使紛争を抑制することだった。この点で、日本の「家族主義経営」と企業別組合は、企業をイエのような大家族として組織し、世界に冠たる成功を収めた。しかし90年代以降、こうした家父長的システムが崩壊して「核家族化」し、日本的中間集団の求心力が失われてきた。

本書はこの問題を「リベラル/コミュニタリアン論争」から説き起こす。そこではアメリカ的個人主義を素朴に信じるロールズ的リベラルに対して、モナド的個人などというものは幻想にすぎないと批判するコミュニタリアンのほうが優勢だった。しかし著者はそれをもう一度ひっくりかえし、コミュニタリアンの信じるコミュニティも幻想だと指摘する。

パトナムなどの社会的資本に関する研究が示すように、アメリカでも中間集団は弱まって、トクヴィルが19世紀のアメリカに見た孤独な個人の集合体としてのデモクラシーに回帰しつつある。集合住宅のまわりに高いフェンスを張りめぐらしてセキュリティを守る「ゲーテッド・コミュニティ」が増え、日本でも都市のマンションの住人は隣の世帯と会話もしない。世界的に、社会がモナド化する傾向が強まっているのだ。

著者はこうした傾向は避けられないし、避けるべきでもないとする。資本主義が効率を追求すると、農村から都市への人口移動や起業・倒産などによって社会の流動性は高まり、安定した中間集団は失われる。それを止めるには国家が特定の集団の既得権を守るしかないが、誰を守るかという基準は恣意的にしかならず、非効率と不公平を生む。

マルクスもハイエクも、資本主義が古い秩序を壊して社会を個人に分解するのは必然的な傾向だと考え、それによって選択の自由が広がることを進歩とみなした。たぶん彼らの事実認識は正しいのだろうが、それが望ましいかどうかはわからない。家父長的な「正社員」中心の企業システムを破壊することは必要だとしても、その先にはどのようなコミュニティが立ち上がってくるのか、あるいは何も残らないのか。

そう遠くない未来に、グローバル資本主義と個人の間にリアルなコミュニティはなくなり、人々は企業への忠誠心を失って複数の企業と契約ベースで仕事をし、地域のコミュニティにも参加しなくなるだろう。残るのは国家などの法的コミュニティと、ウェブなどの仮想的コミュニティぐらいで、人間どうしのコミュニティとして実在するのは家族だけだろう――という著者は、きっと幸福な家庭をもっているのだろう。帰るべき家もないホームレスは、どうすればいいのだろうか。