『諸君!』の最終号が送られてきた。特集は「日本への遺言」。これを読んでいると、終わるのはしょうがないなと思った。西部邁「戦後的迷妄を打破する『維新』を幻想せよ」、渡部昇一「保守派をも蝕む<東京裁判遵守>という妖怪」、平川祐弘「皇室と富士山こそ神道文化の要である」・・・といった見出しだけで、おなかいっぱいになってしまう。

こういう雑誌の主な読者は、戦前世代の軍国老人だ。彼らにとっては、いつまでも「東京裁判」や「占領軍」や「平和憲法」が憎く、論壇の主流だった「戦後民主主義」に対するルサンチマンをこの種の雑誌で解消してきたのだろう。編集者は「われわれは右翼思想に共感してるんじゃなくて、大手メディアのすきまをねらってるんです。平和と民主主義は新聞で読めるから、雑誌で書いても売れない」といっていた。

右派誌が一定の解毒剤の役割を果たしたことは確かで、朝日新聞も無条件で「憲法を守れ」とはいわなくなり、岩波書店などの左派論壇は一足先に没落した。しかし皮肉なことに、こうした戦後的な価値が風化するとともに、それを補完する右派論壇の存在意義もあやしくなってきた。もうすきまがなくなった、というかすきまだらけになって、論壇というものが消えてしまったのだ。

その意味では、彼らの嘆く「言論の衰弱」が起こっているのだが、いちばん衰弱しているのは彼らの言論だ。この最終号には「諸君!これだけは言っておく」という、櫻井よしこ、西尾幹二などのおなじみのメンバーによる座談会があるが、中身のない「新自由主義批判」が繰り返され、司会の宮崎哲弥氏は「定額給付金などのバラマキは必要だ」という。何のことはない。左右の万年野党は、市場経済を否定して政府の温情主義を要求する点で一致しているのである。

いま必要なのは、こうした左右の(国家がすべてを解決するという意味での)国家主義の幻想から覚め、人々が分権的に問題を解決するしかないという散文的な現実を直視することだ。そのメカニズムは市場だけでなく、言論の効率的な配分という点ではウェブも重要な役割を果たすだろう。集権的な大手メディアが読者に「正論」を配給する時代は終わったのだ。この新しい現実を理解できない左右の万年野党が墓場に行くのは、祝賀すべきことだろう。