19日の記事には驚くほどの反響があり、出版化の話まで来た(さすがに無理なのでお断りしたが)。コメントも150を超え、延々と議論が続いている。2ちゃんねるでもスレが立ったようだが、いつものシニカルな反応が少なく、共感する声が意外に多い。日本の閉塞状況の深い部分を、この記事が期せずして突いてしまったのかもしれない。

そのキーワードは「希望」のようだ。救いのない状況に置かれたとき、人は「今ここにないもの」に希望を求める。古代ユダヤ教が故郷をもたないユダヤ人に信じられたのも、ウェーバーが指摘したように「救いは地上ではなく天上にある」という徹底した現世否定的な性格のゆえだった。キリスト教が激しい弾圧に耐えてローマ帝国の貧民に広がったのも、この世の終わりがまもなくやってきて、現世で救われない者ほど神の国で救われるという終末論のためだった。

近代において社会主義が強い影響力をもつのも、同じ理由だ。マルクスの唯物史観がヘーゲル法哲学の模造品だということはよく知られた事実だが、ヘーゲル哲学は本質的にキリスト教の護教論だ(「正反合」のトリアーデは三位一体定式をまねたもの)。社会主義の論争で、つねに非現実的な極左が勝つのも、それが現実を全面的に否定するからだ。現実の政治には必ず何か問題があるので、それを批判する議論は強い。そのとき彼らが現実的な対案を示さないほうが、政治的には強い訴求力をもつ。ユートピアは「どこにもない国」だから美しいのだ。

このような「千年王国主義」は東洋にも多く、イスラム原理主義はその強烈な証拠だ。現代の日本では、創価学会と共産党が都市でコミュニティをもたない中小企業の経営者や未組織労働者を救済する役割を果たしている。「楽土建設」のユートピアニズムと共産主義は似たようなものだが、前者のほうが徹底して非現実的な分だけすぐれている。それは永遠に実現することはないので、つねに「ここにはない」目標になるからだ。

こうしてみると希望というのは、人々の心を動かす上で、経済学の想定する功利主義よりはるかに強い力をもっているようにみえる。世の中には「新自由主義」が人命より金もうけを大事にするガリガリ亡者だと思っている素人もいるようだが、ハイエクは一貫して新古典派の功利主義を否定した。市場(カタラクシー)が富を最大化することは保証されていないし、それが市場の目的でもない。市場の存在根拠は「パレート効率性」ではなく、それが人々の自由な選択を可能にすることなのだ。

いいかえると、自分が望めば今とは違う生活ができるという希望(オプション)がつねに存在することが、市場の意味である。その選択の結果が正しいとは限らないし、恐慌のような不幸な結果をもたらすこともあるが、それでも市場は社会主義よりすぐれている。それは人々がその状態を自分で選んだと納得でき、そして努力すればよりよい未来が開けるという希望があるからだ。

この意味で今の日本が不幸なのは、富が失われていることより希望が失われていることだろう。終戦直後の日本では、若者は焼け跡に設計図を描いて新しい事業を興すことができたが、今では都市はコンクリートの建物で固められ、職場はノンワーキング・リッチに占拠されている。仕事がいやになっても、転職すると生涯収入は5000万円以上減る。起業してもうかると、東京地検特捜部がやってくる。政府はバラマキと企業救済で、社会主義に舵を切った。それが偽りの希望だったことは、歴史が証明しているにもかかわらず。

この閉塞状況に対するもう一つの答は、安冨歩氏もいうように、選択の自由なんて幻想だと悟り、希望を捨てることかもしれない。この「東洋的な道」の先に何があるのかは、正直いってよくわからないが・・・