私は大学で教えているので、学生に「先生」と呼ばれるのはかまわないが、それ以外の人に先生と呼ばれるのは違和感がある。これは誰でも同じらしく、RIETIでは「先生は禁止」というルールをつくった。東大には「自分が教わった教師以外は先生と呼んではならない」という「根岸ルール」があるそうだ。

特に不愉快なのは、官僚が日常会話にもすべて「先生」をつけることだ。これは政治家と同じで、言外に「お前は祭り上げておくが、決めるのはこっちだ」という軽蔑のニュアンスを感じる。このごろは外人も「先生」をつけるようになった。日本の事情にくわしくなると、政治家とか教師とか弁護士とか医者とか、社会から馬鹿にされつつ形式的に尊敬されている職業につける敬称であることを理解するらしい。

企業の中では「課長」「部長」というように肩書きで呼ぶのが日本のマナーだが、これも外人がみると奇異に映るようだ。外資系企業では、同僚は(日本語でいうと)呼び捨てで、ほとんどはファーストネームで呼ぶ。日本人には「さん」をつけるが、外人どうしてMr.をつけることは上司でもまずない。ただ中国では「先生」という敬称が「さん」に近い感じで使われているので、日本語は中国圏なのかもしれない。

こういうマナーは意外に重要で、日本でもマスコミは「さん」が多い。朝日新聞は民主主義だから社長も「さん」で呼ぶ――と入社試験のとき教えられた。NHKもそれに近く、ほとんど「さん」だ。出演者にも「先生」はつけないのが原則だ。

こういう問題は、sociolinguisticsという分野で実証的に研究されている。言語が主語と述語でできているなどというのはインド=ヨーロッパ語族の自民族中心主義で、大部分の言語には主語も述語もない代わり敬称や敬語が発達している。その典型が日本語だ。『源氏物語』には主語はないが、敬語によって人間関係は正確にわかる。日本語にyouに相当する代名詞がないのも、同じ共同体に所属している人々の会話なので主語は自明だったからである。相手をいちいち「**さん」と呼ぶのはわずらわしいが、時枝誠記も指摘したように、もともと日本語に主語はないのだ。