大不況に便乗して、ここぞとばかりに「市場原理主義」を攻撃する本が山のように出てきた。本書は、この種の際物の典型である(リンクは張ってない)。『大転換』というタイトルに示されるように、カール・ポラニーの有名な本を踏襲して「市場の暴力」を批判するのが、こういう本のお決まりのパターンだ。中谷巌氏もポラニーを引用して、市場が「悪魔の挽き臼」だという。

しかし伝統的な社会には「非市場」しかなく、19世紀の欧州で初めて「自己調整的」な市場が登場した、というポラニーの理論は、歴史的事実によって支持されない。ブローデルも批判するように、どんな「未開」な社会にもバザールのような市場は必ずみられ、それは共同体と共存している。古代ギリシャのアゴラも、もとは市場だった。

ポラニーは市場の外側に本来的な「社会」なるものを想定するが、ハイエクも批判したように、こういう場合の社会とは国家の別名にすぎない。ポラニーのいう「大転換」とは、資本主義が没落して社会主義になるという予言だった(原著は1957年)。佐伯啓思氏が市場の代わりに提唱する「脱成長社会」なるものの中身も、「公共計画」という漠然としたものだ。その公共計画を立てるのは国家しかないのだから、彼の主張しているのは社会主義に他ならない。

「格差」を是正して「安定した社会」を実現するには、彼のいうように政府が経済活動を「計画」して、高い税率によって全国民に同じ所得を保障すればいい。しかしこうした社会主義によって日本経済はさらに衰退し、再分配すべき所得も減少するだろう。この安定と成長のトレードオフを無視し、対案を示さないで市場の欠陥だけをあげつらうのは「万年野党」の論理である。たしかに市場には欠陥だらけだが、残念ながら大きな社会をコーディネートするメカニズムとして、市場より弊害の少ないしくみは知られていないのだ。

ポラニーのいうように、労働力を商品として取引する資本主義は自然な感情にフィットしないが、彼の予想に反して、崩壊したのは資本主義ではなく社会主義だった。資本主義は不公正で不安なシステムだが、それを捨てた国はない。それは伝統的な社会よりはるかに大きな富を実現したからだ。中谷氏が資本主義がきらいなら、彼の賞賛するブータンに移住すればいい。