
この不合理なシステムをどう理解するかについては、いろいろな議論がある。モース自身は贈与をコミュニケーションの一種と考え、これがのちにレヴィ=ストロースが『親族の基本構造』で婚姻体系を女の交換として理論化するヒントになった。カール・ポラニーはこうした「象徴的交換」が市場の原型だと論じたが、これはブローデルも批判するように誤りである。市場は贈与と共存しており、一方が他方に転じたわけではない。
Carmichael-MacLeodは、贈与を囚人のジレンマを避けるメカニズムと考えた。1回限りのゲームでは、他人を裏切って食い逃げする行動がナッシュ均衡になるので、共同体にしばりつけて逃げられないようにするメカニズムが必要だ。村に贈与してあとから取り返すしくみになっていると、贈与を取り返すまで他人を裏切ることができない。日本企業の「10年は泥のように働け」というタコ部屋構造は、この点では合理的なのだ。
贈与の解釈としてもっとも有名なのは、バタイユの『呪われた部分』だろう。彼はポトラッチを、剰余を蕩尽するしくみだと考えた。共同体の秩序の同一性が維持されるためには、生産したものがすべて消費されることが理想だ。一部の人だけに富が偏在すると、その分配をめぐって紛争が発生し、共同体の秩序を乱すので、こうした剰余を排出するしくみを人類は構築してきた。
しかし産業革命以後の資本主義は、爆発的なスピードで剰余を作り出し、不平等を生み出し、秩序を壊し始めた。その剰余(利潤)を社会に還元するしくみが市場なのだが、剰余はしばしば市場で処理できる限度を超えて蓄積されるので、それを定期的に破壊するシステムが必要になった。それが恐慌であり、戦争である――というバタイユの「普遍経済学」は、新興国の過剰貯蓄を蕩尽した世界経済危機をうまく説明しているようにみえる。
翻訳がリンクされていませんが、原書で読めるなら、そちらの方が却ってわかりやすいのでしょうか。
民主党系?のアメリカの金持ちが、財をなしてから寄付の競争をしているのを、私は「ムダだなあ、それよりも労働者の雇用条件や商品をよくしたらいいのに」と思っているのですが、そういった疑問のヒントになればと思っています。