小倉秀夫氏によれば、
新自由主義って,人命に特段の価値を見出しません。そもそもたかだか人命のために企業活動が制約されるということが池田先生には許せないのだと思います。「人命と,建築業界の収益とどちらが大切なんだ」と問われて,法律家は人命だと答え,経済学者は建築業界の収益だと答える。
よくこれで弁護士をやってるね。私がどこで「人命に特段の価値を見出さない」と書いたのか、と反論されたら、訴訟なら終わりだ。「小倉ヲチ」なんてサイトもあるぐらい、世の中に彼の被害者は多いようで、まともな議論の相手にはならないが、病理学的な観察の対象としてはおもしろい。

何度も書いたように、リスク管理の目的はリスクをゼロにすることではない。人命が他のすべてに無条件に優先するのなら、まず自動車を禁止すべきだ。重要なのは、リスクと便益のトレードオフの中で何を選ぶかという目的関数の設定である。ところが日本人はこれが非常にへたで、特に役所は「経済性より人命のほうが大事だ」というメディアの攻撃に弱く、責任をまぬがれるために過剰セキュリティを義務づける傾向が強い。これを霞ヶ関では「政府ガード」というそうだ。

この問題は、実は日本経済の最大の課題である内需拡大ともからんでいる。日本人のポートフォリオが異常にリスク回避的で貯蓄過剰になっているという問題は、私の学生のころからゼミの研究テーマだったが、いまだに変わらず、原因もはっきりしない。日本の金融システムが「間接金融」中心になっているというのがよくある説明だが、これは原因か結果かわからない。1980年代に外資系証券がアークヒルズに大量にやってきて、「これからは証券の時代だ」といわれたが、バブル崩壊でほとんど撤退してしまった。

残る最悪の説明は「日本人はリスクがきらいなのだ」という文化論だが、これは何も説明していないに等しい。私が参考になると思っているのは、ゲーム理論でいうリスク支配戦略の概念だ。ゲームに複数均衡がある場合、一つの均衡がパレート支配的であっても、合理的な行動によってそこに到達するアルゴリズムは存在しない。しかし進化ゲームを考えると、Kandori-Mailath-Robなどで知られているように、個人的にリスクをとる突然変異が十分大きければ(パレート支配的な)リスク支配戦略が実現する。

逆にいうと、日本人のように突然変異の少ない(同質的な)集団では、自分だけ他人と違う行動をとるリスクが将来の利益より大きいので、昔からのローリスクの均衡への経路依存性が強くなる。こうしたリスクを効率的に配分するのが金融システムの機能で、日本でも80年代には長銀や興銀が投資銀行への転進をはかったが、バブル崩壊に巻き込まれて挫折した。そのため、ハイリスク型の金融市場が形成されず、資産構成がローリスクに片寄ったまま現在に至っているのではないか。

このローリスク志向のおかげで、邦銀は今回の金融危機では難をまぬがれたので、悪いことばかりでもないが、この壁を突破しないと日本は、長期停滞から脱却できないだろう。まぁゆっくり衰退するというのも一つの選択ではあり、事実上それしかないような気もするが、それが「正義」だと勘違いして日本を衰退の道にひきずりこむのはやめてほしいものだ。