雇用問題への関心は私の想像した以上に強く、メディアの取材もそこに集中している。これはいい機会なので、企業統治の観点からこの問題を考えてみよう。

日本企業は、よく「労働者管理」だといわれる。これは冗談ではなく、日本企業の経営者はほとんどがサラリーマンで、株主の議決権は「持ち合い」などで制限され、ROEは平均数%と先進国で飛びぬけて低い。いろいろな指標でみて、日本の会社は、かつてのユーゴスラビアのような労働者管理企業の特徴をそなえているのだ。

こうした企業が、かつては理想だと考えられていた。サンディカリズムは、資本蓄積を否定して組合による企業経営を指向した。ユーゴはそれを国家レベルで実現した。エンゲルスはサンディカリズムを「空想的社会主義」と軽蔑したが、「労働者が自分の主人になる」という理想は、実はマルクスの掲げたものであり、それ自体は美しい。最近よく話題になるベーシック・インカムも、フランスの5月革命で「自主管理」のスローガンを掲げたアンドレ・ゴルツが提唱したものだ。

しかしユーゴの実験は、失敗に終わった。現代でも生協や農協のように協同組合方式で経営されている企業はあるが、業績が上がらないため減っている。それは労働者が残余請求権者(residual claimant)となるので、賃金を最大化するために資本を浪費するインセンティブをもつからだ。派遣村の人々が主張するように利益をすべて賃金として払いきったら、資本蓄積はできなくなり、老朽化した設備を壊れるまで使うので、企業は市場で競争に敗れてしまう。

日本企業のイノベーションは、労働者を長期雇用で企業に囲い込んで資本収益を労働者に再分配し、資本の浪費を防いだことだ。企業の利益は最終的には労働者に還元されるので、労働組合は「労使協調」によって賃金を抑制し、配置転換に協力する。これは労使が「階級闘争」を行なう19世紀的な産業資本主義に比べて企業の変化への対応を容易にし、高度成長を支えた。

一般的には、Hansmannのいうように、多くの「ステークホルダー」が均等に経営権をもつことは交渉問題を引き起こして好ましくないので、残余請求権者を一つに決め、あとの関係者の請求権は契約によって事前に決めることが合理的だ。この場合の残余請求権者を資本家にする必然性はなく、労働者でも消費者でもよいが、誰にするかで企業の業績は大きな影響を受ける。

企業の付加価値の源泉として最大の部分を占めるのは労働なので、労働者を残余請求権者とすることが一見、合理的にみえる。1980年代には日本の企業を「人本主義」などと賞賛する経営学者がいたが、そういう日本的経営論は最近ではすっかり影をひそめた。その原因は、労働者管理型のガバナンスでは組織防衛のインセンティブが強すぎるからだ。

企業が傾いたときも、労働者以外の生産要素をすべて切ったあとで雇用に手をつけるのが、日本の経営者の心がけとされている。いいかえると、労働者との暗黙の契約を最優先し、ほかの契約は破棄するのだ。これは美しいようにみえるが、企業のインサイダーが残余請求権者になると、企業組織そのものを否定する撤退や清算などの抜本的な事業再構築ができず、Acemogluのいう生産要素の再配分がきわめて困難になる。

この問題は企業統治の理論で詳細に論じられており、結論だけいうと、小規模な変化には労働者管理が適しているが、組織や資本の再構築をともなう大規模な変化には株主資本主義によって所有権の移転を行なうことが合理的だ。ただし資本家が暗黙の契約を事後的に破棄すると、労働者が人的資本に投資しなくなるので、労働市場を競争的にして外部オプションを最大化し、自由に動けるような制度設計が望ましい。くわしくは、Tiroleの教科書を参照されたい。