ダイヤモンド・オンラインには、上杉隆氏に続いて保田隆明氏も、定額給付金が「マクロ経済学の大原則」だとかいう記事を書いている。こんな初歩的な間違いを編集部がチェックできないのは、ジャーナリストに経済学が理解されていないからだろう。こうした誤解が国会の混乱した増税論議の原因にもなっているので、現在のマクロ経済学の通説を簡単にまとめておこう:
  1. 財政政策の効果は疑わしい:保田氏が信じている1960年代の経済学とは異なり、現代のマクロ経済学では、財政政策の乗数効果はきわめて低いというのが実証研究の結果である。特に大恐慌については、ケインズ的な財政政策の効果はゼロに近かったというのがChristina Romerなどの結論だ。

  2. 今年の減税を2年後の増税でファイナンスするのは無意味だ:自民党の財政タカ派は、なぜか増税の時期を明記することが政治家の「矜持」だと思っているようだが、2年後に増税するという条件つきで2兆円の減税を行なうのでは、その効果は中立命題によってほとんどキャンセルされるだろう。

  3. GDPが低下しても、景気対策が必要とは限らない:現代のマクロ経済学では、GDPが長期的な定常成長水準である潜在GDP(potential output)より高いか低いかを重視する。すなわち実質GDPをY、潜在GDPをY*、物価上昇率を⊿Pとすると、フィリップス曲線は次のようになる(aは需要パラメータ、bは外部ショック):

    ⊿P=a(Y-Y*)+b

  4. マクロ政策によって潜在GDPを高めることはできない:財政・金融政策の目的はGDPギャップ(Y-Y*)を縮めて⊿Pを安定化することであり、潜在GDPそのものを高めることはできない。潜在成長率を高めるには、生産性(TFP)を高めるミクロ的な改革が必要である。

  5. GDPが潜在GDPより大きい場合は、需要喚起策は有害である:GDPがマイナス成長になっても、潜在GDPより高い(Y>Y*)ことがある。1970年代の石油危機や1980年代の日本、あるいは2000年代のアメリカは、そういう状況だったと考えられる。こういう場合、財政・金融政策で需要を追加すると、(物価または資産の)インフレをまねく。

  6. 財政政策は「つなぎ」にすぎず、無駄も多い:政府支出の効果はその年に限られ、潜在GDPを引き上げる効果もないので、効果はそのとき限りである。それが効果を発揮するのは、大幅な負のGDPギャップ(Y<Y*)が発生し、短期間に潜在GDPに復帰する場合に限られる。また財政支出には政治的なバイアスが大きく、バラマキによる無駄が多い。

  7. 財政政策の有効性は、財政赤字で制約される:現在の日米のように財政赤字が大きくなると、財政破綻への不安によって需要創出効果がキャンセルされるおそれがある。特にアメリカの場合、経常赤字も大きいので、オバマ政権の巨額の財政政策によってドルが暴落することを憂慮して、株式市場は下げている。

  8. 短期的な調整は、金融政策で行なうことが望ましい:潜在GDPからの乖離を修正するのは金融政策の役割だというのが、現在の経済学の標準的な理解である。この場合、実質金利が自然利子率より高いかどうかが、金融を引き締めるか緩和するかのメルクマールとなる。アメリカの2000年代のように長期にわたって自然利子率を下回る低金利を続けると、バブルが発生する。

  9. デフレでゼロ金利になると、金融政策はきかない:名目金利がゼロになると、金融政策の有効性は大きく制約される。特にデフレの場合、マイナス金利にする方法は、理論的にはあるが、実務的には困難だ。この状況で通貨をいくら大量に供給しても、貨幣乗数の低下によって相殺され、マネーストックは増えない。

  10. 非伝統的な金融政策のリスクは大きい:実質金利が自然利子率を下回っているとき、日銀が行なったゼロ金利や量的緩和は、結果的には円キャリー取引を誘発して、アメリカの住宅バブルを促進した。バーナンキが行なっているリスク資産の購入も、過大なリスクテイクによってFRBが巨額の損失をこうむると、金融システムへの信頼が崩壊するおそれがある。

  11. 人為的インフレ政策とインフレ目標は異なる:物価を抑制するためのインフレ目標は多くの中央銀行で採用されており、日銀もゆるやかな「理解」は共有している。しかし中央銀行が期待形成をコントロールする人為的インフレ政策は、それとはまったく異なる政策であり、理論的にも実務的にも不可能だ。アメリカの非伝統的な金融政策でもインフレは起こらず、クルーグマンも撤回した。
景気対策の有効性を考える上で重要なのは、短期的なGDPギャップ長期的な潜在GDPの低下を区別することだ。アメリカでは金融システムの崩壊によって大幅なGDPギャップが生じていると推定されるので、巨額の財政出動も正当化できようが、日本の成長率がマイナスになった主要な原因は輸出の急減である。この原因は一時的なGDPギャップではなく、円安バブルと世界的インバランスの是正による潜在GDPへの復帰と考えられるので、マクロ政策によって変えることは困難だ。

さらに日本の場合、財政政策は財政赤字によって制約され、金融政策はゼロ金利で制約されているので、マクロ政策の自由度も限られている。定額給付金は「負の財政政策」となり、日銀のCP購入などの効果もマージナルなものだ。2次にわたる補正予算が不発に終わった今、GDPを決めているのは1%台に低下した潜在成長率である。政府が考えなければならないのは、解雇規制の撤廃などによって労働生産性を上げ、イノベーションを促進して潜在成長率を高める長期的な規制改革である。

追記:こうした最近のマクロ経済学の動向をやさしく解説した論文が、日銀のレビュー・シリーズで公開されている。