私の出演したCSの番組がYouTubeで流されて、15日の記事にコメントがたくさんついている。司会者が私の話を理解しないで変な突っ込みを入れ、コメンテーターが「日本的経営」にこだわるため話が脱線してしまったので、少し補足しておこう。
今のような状況になると、必ず「企業は景気のいいときもうかったのだから、内部留保を取り崩して雇用を守れ」という話が出てくる。こういう精神論は、企業が労働者のセーフティ・ネットになっていた日本的福祉システムを前提にしているが、そんな構造はとっくに崩壊しているのだ。日本的経営の典型と思われているトヨタも、すでに海外生産が国内生産を上回った。
こういう状況で製造業の派遣を禁止したら、派遣労働者は間違いなく失業者になる。不況で労働需要が急減しているので、企業が正社員を新たに雇用することは考えられない。人手が足りなければ、海外にアウトソースするだろう。円高も進んでいるので、今後も雇用規制が強まることが予想されれば、海外生産にシフトする。つまり派遣規制の強化は「空洞化」を促進するのだ。
拙著でも書いたように、日本企業の年功序列型の賃金プロファイルは、高度成長期までは一定の合理性があった。それは若いとき会社に貯金し、年をとってから貯金を取り崩す構造によって、社員の企業特殊的(firm-specific)な人的資本への投資を促進し、かつ彼らがその技能を「食い逃げ」しないように囲い込む暗黙の契約だったからである。
このように「10年は泥のように働け」という丁稚奉公の構造は、日本が途上国で需要がつねに右上がりである段階では合理的だった。賃金などのコスト優位があるうちは、輸出によって経済全体の拡大が続くので、「ジェネラリスト」や「多能工」を育て、社内の衰退部門から成長部門に配置転換することによって、日本企業は需要の変化に対応してきた。これは労働組合が職能別に細分化されて配置転換できない欧米の労使関係より、日本的労使関係のすぐれていた点だ。
しかし賃金が上がってコスト優位が失われると潜在成長率が低下し、こうしたローテーションによって雇用を守ることはできなくなる。特に製造業では、アジア諸国との競争によって規模が絶対的に収縮しているので、賃金コストを削減することは避けられない。こういうとき企業が手をつけるのは、暗黙の契約を破棄して賃金プロファイルを平準化し、貯金を払い戻すのをやめることだ。「能力主義」賃金というのは、その婉曲話法である。
しかし「ノンワーキング・リッチ」や天下りは、若いときの貯金を取り崩す段階なので、全体のキャリアパスを変えないでそこだけ壊すと、若い社員は貯金をやめて効率のいい会社に転職し、若い官僚は「脱藩」してしまう。これによって貯金が維持できなくなる・・・という悪循環が生じて、90年代に終身雇用・年功序列構造は崩壊した。この流れが逆転することは考えられない。
会社が年金や社宅まで丸抱えで世話する日本的福祉システムは、企業がグローバル化した現在では、もう維持できないのだ。ところが派遣村の人々が求めるのは、「派遣を社宅に入れろ」。こういう古い発想では、今はマスコミにちやほやされるかもしれないが、そのうち彼らも雇用問題には飽きるので、忘れられるだろう。
企業に依存した福祉システムが崩壊し、「すべり台社会」になったという湯浅誠氏の問題提起は正しいのだが、その流れを止めることはできないし、社宅や生活保護を求めても本質的な解決にはならない。解雇規制を撤廃して労働市場の柔軟性を高めるとともに、再教育システムや雇用データベースの整備などによって労働者が動きやすくするしか道はないだろう。
今のような状況になると、必ず「企業は景気のいいときもうかったのだから、内部留保を取り崩して雇用を守れ」という話が出てくる。こういう精神論は、企業が労働者のセーフティ・ネットになっていた日本的福祉システムを前提にしているが、そんな構造はとっくに崩壊しているのだ。日本的経営の典型と思われているトヨタも、すでに海外生産が国内生産を上回った。
こういう状況で製造業の派遣を禁止したら、派遣労働者は間違いなく失業者になる。不況で労働需要が急減しているので、企業が正社員を新たに雇用することは考えられない。人手が足りなければ、海外にアウトソースするだろう。円高も進んでいるので、今後も雇用規制が強まることが予想されれば、海外生産にシフトする。つまり派遣規制の強化は「空洞化」を促進するのだ。
拙著でも書いたように、日本企業の年功序列型の賃金プロファイルは、高度成長期までは一定の合理性があった。それは若いとき会社に貯金し、年をとってから貯金を取り崩す構造によって、社員の企業特殊的(firm-specific)な人的資本への投資を促進し、かつ彼らがその技能を「食い逃げ」しないように囲い込む暗黙の契約だったからである。
このように「10年は泥のように働け」という丁稚奉公の構造は、日本が途上国で需要がつねに右上がりである段階では合理的だった。賃金などのコスト優位があるうちは、輸出によって経済全体の拡大が続くので、「ジェネラリスト」や「多能工」を育て、社内の衰退部門から成長部門に配置転換することによって、日本企業は需要の変化に対応してきた。これは労働組合が職能別に細分化されて配置転換できない欧米の労使関係より、日本的労使関係のすぐれていた点だ。
しかし賃金が上がってコスト優位が失われると潜在成長率が低下し、こうしたローテーションによって雇用を守ることはできなくなる。特に製造業では、アジア諸国との競争によって規模が絶対的に収縮しているので、賃金コストを削減することは避けられない。こういうとき企業が手をつけるのは、暗黙の契約を破棄して賃金プロファイルを平準化し、貯金を払い戻すのをやめることだ。「能力主義」賃金というのは、その婉曲話法である。
しかし「ノンワーキング・リッチ」や天下りは、若いときの貯金を取り崩す段階なので、全体のキャリアパスを変えないでそこだけ壊すと、若い社員は貯金をやめて効率のいい会社に転職し、若い官僚は「脱藩」してしまう。これによって貯金が維持できなくなる・・・という悪循環が生じて、90年代に終身雇用・年功序列構造は崩壊した。この流れが逆転することは考えられない。
会社が年金や社宅まで丸抱えで世話する日本的福祉システムは、企業がグローバル化した現在では、もう維持できないのだ。ところが派遣村の人々が求めるのは、「派遣を社宅に入れろ」。こういう古い発想では、今はマスコミにちやほやされるかもしれないが、そのうち彼らも雇用問題には飽きるので、忘れられるだろう。
企業に依存した福祉システムが崩壊し、「すべり台社会」になったという湯浅誠氏の問題提起は正しいのだが、その流れを止めることはできないし、社宅や生活保護を求めても本質的な解決にはならない。解雇規制を撤廃して労働市場の柔軟性を高めるとともに、再教育システムや雇用データベースの整備などによって労働者が動きやすくするしか道はないだろう。