
1962年に発表されたころ、本書の最終章でサルトルを批判した部分が「構造主義」の宣言として注目されたが、そういう「主義」の本だと思って読むと戸惑うだろう。主要部分は彼のフィールドワークや神話研究などの紹介で、多くの具体例によってデカルト的理性が西洋人の独占物ではなく、「未開人」にも共有されていることを実証しようとする「具体的なものの科学」だ。むしろ「歴史と弁証法」を論じる最終章が唐突な印象を与える。
世の中的には「ポスト構造主義も終わった」などといわれているので、今さら構造主義でもあるまいと思う人も多いだろうが、本書はそういう分類に収まる本ではない。著者の主なメッセージは、野生の思考を通じて人類の共有する普遍的な論理を明らかにし、西欧近代の自民族中心主義を批判することである。ただ人類学界では、彼の親族構造の研究についての評価は高いが、南米の原住民の神話に数学的構造を見出す分析は、反証可能性のない物語にすぎないという批判が多い。しかし著者は『神話論理』第1巻の「序曲」で、さりげなく予防線を張っている:
人類学の究極の目的が、思考を対象化し、思考と思考の仕組のよりよい理解に貢献することであるならば、本書において南アメリカの先住民の思考法の輪郭が私の思考の操作のもとで見えてくるのと、私の思考法の輪郭が南アメリカの先住民の思考操作のもとで見えてくるのは、結局は同じことである。(訳書p.22)デリダのように、著者の立場そのものが西洋的なロゴス中心主義のもっとも洗練された形態だと批判することも可能だ。しかし20世紀の思想の決定的な分水嶺は、ソシュールから著者に至る言語論的転回にあり、それは後戻り不可能な影響を(経済学を除く)すべての社会科学に与えた。『神話論理』にも道化や王殺しなどの主題は出てくるが、著者はそれを静的な構造に回収してしまう。それは彼がこうしたカオスを認めないからではない。逆に構造が、壊れやすい一時的なものであることを知っているからだ。『神話論理』最終巻の「フィナーレ」(未訳)は、パスカルを思わせる美しい文章でこう結ばれる:
神話の根底にある基本的な二項対立は、ハムレットによって正確に述べられたものだが、彼はそれを楽観的すぎる形で表現した。人は存在するか否かを選ぶことはできないのだ。歴史の本質である精神的な努力によって、人は自明の矛盾した真理を認識し、その根源的な矛盾を解決しようとして限りなく二項対立を作り出してきたが、その矛盾は決して解決できない。
矛盾の一方には、存在という事実がある。日常生活や精神的・感情的な生活、政治的な選択や社会的・自然的な世界、実用的な努力や科学的探究に理由や意味を与えられるのが人だけであることを、彼は深いレベルで知っている。他方には無という事実があり、それは存在の認識と不可分である。人は未来もずっとここにいることはできず、この惑星の表面から消えることは避けられないが、その惑星も死ぬ運命にある。人の労働や悲しみや喜びや希望など、はかない現象の記憶を保持する意識も生き残りえず、やがて人類のわずかな証拠も地球の表面から消されるだろう――まるでそれは最初から存在しなかったかのように。
追記:2009年11月3日、レヴィ=ストロースは死去した。その業績は、疑いもなく20世紀最高の知的遺産として歴史に残るだろう。