
本書を読むと、ケインズの本質は経済学者ではなく、官僚あるいは政治家だったことがわかる。政治というのは「総合芸術」であり、経済学はその一部にすぎない。ケインズも、経済学は「モラル・サイエンス」の一つの手段だと考えていた。「わが孫たちの経済的可能性」というエッセイ(1930)には、次のような一節がある:
I draw the conclusion that, assuming no important wars and no important increase in population, the economic problem may be solved, or be at least within sight of solution, within a hundred years. This means that the economic problem is not - if we look into the future - the permanent problem of the human race. (italic original)そして彼は「経済問題の重要性を過大評価したり、その見かけ上の必要性のために他のもっと重要で永続的な意義をもつ問題を犠牲にしたりしてはならない。それは歯医者のような専門家にまかせるべき問題なのだ」と結論する。彼にとって人生の目的は芸術や哲学であり、経済学は日常生活の雑事を合理化するための実用的な知識にすぎなかった。彼が経済システムを政府によってコントロールしようとしたのも、政府の力を過信したからではなく、逆に経済問題なんてつまらないもので、歯の治療のようにテクニカルに解決できると考えていたからだ。
これは「富の爆発的な増大」によって「必然の国」が克服され、「未来社会の経済運営は簿記のように単純なものになる」と予想したマルクスと似ているが、残念ながらケインズの孫の世代のわれわれにとっても経済問題は解決したとはいえない。彼らがともに間違えたのは、経済システムをコントロールすることは簿記のように単純ではなく、巨大な官僚機構を必要とすることだ。共産主義社会は官僚に押しつぶされ、福祉国家は官僚に乗っ取られてしまった。
しかし今回の経済危機は、過剰消費に支えられてきたアメリカ的な消費資本主義の終焉を示しているのかもしれない。先進国ではケインズのいう「絶対的必要」はもう満たされているのだから、本当は必然(必要)の国はすでに終わったのかもしれない。重要なのは政府が消費を刺激して経済の規模を維持する「ケインズ政策」ではなく、消費の中身を豊かにすることではないか。晩年のケインズが、芸術評議会の会長としてオペラやバレーの育成に最大のエネルギーを注いだように。
本書はケインズの伝記としてはよく書けているが、経済学については何も学ぶことはできない。