小島寛之氏(*)のブログで私の昔の記事のコメント欄に言及されて思い出したのだが、そういえば「バーナンキ=野口の背理法」なんてのをまじめに提唱していた(自称)経済学者がいたっけ。これはバーナンキの冗談を野口某がまじめに「背理法」と称しただけなのだが、小島氏も指摘するように、誤った仮定から導かれる結論はすべて正しい(対偶をとればわかる)。
野口の背理法の(暗黙の)誤った仮定は、「日銀が無限に買いオペをやれば、単調かつ連続に物価が上昇する」と仮定していることだ。通貨供給量と物価の間にそんな単純な関係がないことは、今のバーナンキがよく知っているだろう。そもそも両者には1対1の対応関係すらない。通貨供給をいくら増やしてもデフレになる(00年代前半のような)場合もあれば、逆に通貨供給が減っているのに物価が上昇する現在のような場合もある。
経済学では「**関数」という言葉を安易に使うが、ペレルマンが聞いたら怒るだろう。数学的に厳密な意味での関数=写像が実証的に観察できるようなマクロ経済データは、世界中に一つもない。回帰分析の結果が(自然科学の基準で)有意になるほど量的に十分でコントロールされた統計データもないから、経済学者の「モデル」というのは荒っぽいたとえ話にすぎない。
平常時にはこういうアバウトな話でもいいが、スティグリッツもいうように、今のような混乱状態ではインフレ目標は有害無益だ。池尾和人氏は、インフレ目標を設定している18ヶ国のうち、現実の物価上昇率が目標内に収まっているのはブラジルだけだと指摘している。しかし今、インフレ目標を達成するために金融を引き締める中央銀行はない。同時にサブプライム危機が進行しているからだ。つまりインフレ目標は使えないのだ。平常時には経済政策なんかなくてもいいのだから、非常時に使えない経済政策というのは何の意味もない。
現在のカオスを乗り切る上で重要なのは、まず経済が合理的な「関数」で構成されているというワルラス以来の迷信を捨てることだ。Economist誌も指摘するように、アメリカが90年代の日本の失敗から学ぶべき最大の教訓は、中央銀行も議会も法律や会計規則を厳格に守って例外を許さず、つぶれるべき銀行はすみやかにつぶす一貫性が大事だということだ。そうしたルールが確立して初めて企業も再建できる。関数的な予見可能性は、前提ではなく努力目標なのである。
(*)小島氏の『確率的発想法』は名著だと思うが、近著『容疑者ケインズ』は安直でいただけない。
野口の背理法の(暗黙の)誤った仮定は、「日銀が無限に買いオペをやれば、単調かつ連続に物価が上昇する」と仮定していることだ。通貨供給量と物価の間にそんな単純な関係がないことは、今のバーナンキがよく知っているだろう。そもそも両者には1対1の対応関係すらない。通貨供給をいくら増やしてもデフレになる(00年代前半のような)場合もあれば、逆に通貨供給が減っているのに物価が上昇する現在のような場合もある。
経済学では「**関数」という言葉を安易に使うが、ペレルマンが聞いたら怒るだろう。数学的に厳密な意味での関数=写像が実証的に観察できるようなマクロ経済データは、世界中に一つもない。回帰分析の結果が(自然科学の基準で)有意になるほど量的に十分でコントロールされた統計データもないから、経済学者の「モデル」というのは荒っぽいたとえ話にすぎない。
平常時にはこういうアバウトな話でもいいが、スティグリッツもいうように、今のような混乱状態ではインフレ目標は有害無益だ。池尾和人氏は、インフレ目標を設定している18ヶ国のうち、現実の物価上昇率が目標内に収まっているのはブラジルだけだと指摘している。しかし今、インフレ目標を達成するために金融を引き締める中央銀行はない。同時にサブプライム危機が進行しているからだ。つまりインフレ目標は使えないのだ。平常時には経済政策なんかなくてもいいのだから、非常時に使えない経済政策というのは何の意味もない。
現在のカオスを乗り切る上で重要なのは、まず経済が合理的な「関数」で構成されているというワルラス以来の迷信を捨てることだ。Economist誌も指摘するように、アメリカが90年代の日本の失敗から学ぶべき最大の教訓は、中央銀行も議会も法律や会計規則を厳格に守って例外を許さず、つぶれるべき銀行はすみやかにつぶす一貫性が大事だということだ。そうしたルールが確立して初めて企業も再建できる。関数的な予見可能性は、前提ではなく努力目標なのである。
(*)小島氏の『確率的発想法』は名著だと思うが、近著『容疑者ケインズ』は安直でいただけない。