前に紹介した「グーグルでバカになる?」の逆に、書物のように知識を系統的に整理するのは近代社会の特殊な秩序で、情報の爆発によって分類は破綻し、すべてはその他(miscellaneous)になると主張する本。それ以上、深い思想が書かれているわけではないが、ちょっとしたヒントにはなるかもしれない。

たとえば今、私は本(共著)1冊と学術論文の査読1本と雑誌原稿2本とウェブのコラム1本を抱えているが、活字メディアは効率が悪い。雑誌原稿を書くときのエネルギーの半分近くは、所定の字数に収めることに費やされるが、ウェブはアバウトでいいからだ。本はもっと大変で、共著となると1年は優にかかる。

『カラマーゾフの兄弟』を人類の最高の成果と考えるような人にとっては、グーグルはそういう「大思想」を滅ぼす元凶だろう。しかし世の中に『カラ兄』を最後まで読んだ人が何人いるだろうか(私は高校生のころ読んだが今はとても読めない)。少し時代をさかのぼると、思想がああいう重厚長大な古典にまとまっているほうが珍しい。パスカルの『パンセ』は書物の体をなしていないが、私はドストエフスキーと同じぐらい影響を受けた。

本という形式は15世紀の活版印刷以降のものであり、レコードで音楽を聞く習慣は、ここ100年ぐらいのものだ。それは流通費用のかかる市場で、一定のまとまった分量がないと利潤が出ないという資本主義の要請によってできた形式にすぎない。情報コストが限りなくゼロに近づくインターネット時代には、知識は断片化して雑然とした「その他」の集積になり、それをデータベース化するグーグルのようなシステムが社会のインフラになるだろう。

すでに自然科学の世界では、論文が主になっている。それもかつては査読つきの学会誌に掲載されないと業績と認められなかったが、最近ではPerelmanがarXivに投稿したディスカッションペーパーがフィールズ賞の授賞対象になった(本人は拒否)。経済学でも、有名な論文はDPで世界中を流通し、IDEASで参照される。数人のレフェリーが査読するより、世界中の読者が読むほうがはるかにdebuggingの効果は高い。特に経済学の場合、マクロ政策の論文が3年後にEconometricaに載っても役に立たないし、ミクロの「定理/証明」論文は、教職を得るための数学技術のデモ以外の意味はほとんどない。

ケインズもいったように、経済学なんてしょせんジャーナリズムなのだから、時事的なパンフレットで政策に影響を与えるのが本業だ。事実アメリカでは、専門家のブログがメディアで論評されるようになっている。あと10年もすれば、ブログやSNSが主要なメディアになるだろう。パスカルもケインズも、現代なら偉大なブロガーになるのではないか――などといって著書をサボる言い訳にしてはいけないが。