すべての経済はバブルに通じる (光文社新書 363)サブプライム危機以来、それ見たことかといわんばかりに、マル経の残党が『金融権力』『閉塞経済』などの駄本を出しているが、本書は行動ファイナンスの専門家によるオーソドックスな金融理論を踏まえた議論である。

ところが皮肉なことに、その論理構成は宇野弘蔵によく似ている(著者も岩井克人『貨幣論』に言及しているが、あれは宇野のパクリ)。マルクスが資本主義の本質を生産(労働)に求めて労働価値説のアポリアに陥ったのに対して、宇野は流通にその本質を求めた。これは市場で価格が決まると考える新古典派と基本的には同じである。

宇野は資本主義の歴史を差異による利鞘の進化と考えた。商人資本主義は地域による価格差で利潤を上げたが、この差異は通商が発達すると消滅する。これに対して産業資本主義は資本蓄積で利潤を上げたが、これも同様の資本家が出てくると競争によって利潤率が低下する。そこで資本の有機的構成の高度化(技術革新)によって超過利潤を上げようとするが、この競争が激化すると恐慌(バブルの崩壊)が起こる。

そこで20世紀の金融資本主義では、差異が海外生産や植民地に求められ、帝国主義になる・・・というのがヒルファーディングの『金融資本論』で、いわゆる従属理論やウォーラーステインなどに連なっている。これは歴史理論としては現在でも有力で、ブローデルが資本主義の本質を鞘取りに求めたのとも似ている。

著者はこれを金融理論からみて、「実体なき差異」としてのリターンを求める金融資本主義は、競争が激化してエントロピーが高まるにつれて、行き詰まらざるをえないと論じる。金融市場は、ケインズが「美人投票」にたとえたように自己言及的な矛盾をはらんでいるため、バブルはその必然的な結果だ。「理論価格」との利鞘でかせぐ金融工学は、相場が理論価格から大きく乖離するとLTCMのように破綻してしまう。

著者は、このような意味での金融資本主義は、今度のサブプライム危機で限界に達し、今後は資源価格のようなリアルな市場でギャンブルが始まるだろうとみる。ただBRICsの成長や情報技術革新などを考えると、金融的な鞘はまだ十分あり、よくも悪くもバブルは繰り返されるだろう。バブルや恐慌は――宇野が論じたように――資本主義の病いではなく、定期的に行なわれる「再起動」なのだ。