著者は「現代思想入門」みたいな本をたくさん書いており、どれも似たような内容なので、それを読んだ人にはおすすめしない。しかし彼もいうように、そういう初歩的な知識もなしに「ネオリベ批判」とか「格差社会」を語る若者が最近、増殖しているようだ。「民族派」だったタレントがサヨクに「転向」して『蟹工船』に涙したり、秋葉原事件の殺人犯の「人間疎外」を語るメッセージに2ちゃんねるで共感の声が集まる、といった現象には不気味なものを感じる。

特にひどいのは、松尾匡『「はだかの王様」の経済学』だ。最初は冗談かと思ったのだが、どうやら彼は本気で、初期マルクスの「疎外論」が現代に有効だと考えているらしい。本書も指摘するように、現状を人間の本質が「疎外」された状態として糾弾し、「本来の姿」を取り戻そう、とネジをまくのは、かつての学生運動でおなじみの擬似宗教的なスローガンである。ポスコロも「ジェンダーフリー」もその変種だ。

マルクス自身は『ドイツ・イデオロギー』で、こうした疎外論を徹底的に批判し、「止揚」とか「弁証法」などのヘーゲル的な概念を使うのをやめたのだが、1960年代に『経済学・哲学草稿』などの初期の原稿が「再発見」され、全共闘時代にはこうした「人間主義的」マルクス理解が流行した。これに対して、アルチュセールや廣松渉などが「疎外論こそ克服すべきブルジョワ・イデオロギーだ」と批判し、超越的な「本質」を否定する思想はポストモダンにも受け継がれた。

・・・と思っていたのだが、どうも松尾本などをみると、そういう常識がすっぽり抜けて、今ごろ疎外論を「再々発見」しているようだ。かつて疎外されたプロレタリアートを救おうとして行なわれた社会主義革命が、結果的にはブルジョワ社会よりはるかに悲惨な結果をもたらしたのを知らないらしい。マルクスは『ドイツ・イデオロギー』で、疎外論イデオローグの代表であるマックス・シュティルナーをこう批判している――「地獄への道は善意で舗装されている」。