a3e3498c.jpg本書の大部分は、シェイクスピアが別人だとか、実在しなかったとかいう説の当否を論じるもので、シェイクスピアのファンでもなければ大しておもしろくない。それより不思議なのは、一介の役者がどうやって、3万語もの語彙を使った高度な作品を40本も書けたのかということだ。当時の欽定訳聖書でさえ6500語しか使っていないのに、田舎の小学校を出たかどうかの座付き脚本家が、片手間であのように完成度の高い作品を本当に書くことができたのだろうか。

その謎解きの一部は、彼が子供のころから貴族の家に住み込みで働いていたらしいということだが、これは答として十分とはいいがたい。むしろ本質的なのは、第4部で論じられているように、シェイクスピアの作品とされている脚本は、ほとんど他人の作品の翻案だということだ。初期の作品には署名さえなく、『ロミオとジュリエット』は同時代の作家の脚本を登場人物の名前まで借用しており、さらにこの下敷きには同じ名前の古くからの民話があった。

Posnerによれば、『ヘンリー6世』の最初の3部の約6000行のうち、1700行が王についての記録の丸ごとコピーで、2300行がほとんど同じだという。実に作品の2/3が「盗作」であり、現代なら確実に著作権法違反だ。そもそも作者という概念は、個人がゼロからすべてを創造するという18世紀のロマン主義の産物であり、現実の創作はすべて「先人の肩の上に乗って」行なわれるのだ。現代の圧力団体の陳腐なレトリックは200年古い。

そしてデジタル・コンテンツは、シェイクスピアの時代に戻りつつある。LinuxにもWikipediaにも作者はいない。シェイクスピアは、いわばLinus TorvaldsやJimmy Walesのような、すぐれた編集者だったのである。その語彙が豊富なのも、彼が同時代の最良の作品を見事に組み合わせたためであり、その意味で「シェイクスピアとは誰だったのか」という問いが愚問だ。それは16世紀イギリスの演劇を総合した集合名詞なのだ。