8453dd1e.jpg「自由」という漢語に対応するやまとことばはない。Zakariaによれば、似た言葉がある文明圏でも、その意味は西欧圏とは違う。中国の自由は「勝手気まま」という意味だった。日本語でしいていえば、無縁という言葉が近いが、これは共同体から縁を切られるという意味だ。つまり選択の自由というのは、西欧文明に固有の概念なのだ。

しかし本書も指摘するように、プロテスタンティズムには自由の概念がない。カルヴァンの予定説によれば、だれが天国に行くかはこの世の最初から決まっており、人々は自分が救われるかどうかを確認するために蓄財する。この信仰は、新古典派経済学と奇妙に一致している。Arrow-Debreuモデルでは、人々は世界の最初に一度だけ、永遠の未来までの正確な知識をもとにして合理的な選択を行い、将来財まで含めたすべての市場がクリアされ、あとはそのプログラムに従って行動する。そこに自由は存在しない。

この起源は、アダム・スミスの理神論にある。堂目卓生氏も指摘するように、スミスは利己心を「第三者の目を意識しながら自己の利益を追求すること」と考えた。 見えざる手とは、この社会的自我であり、神のメタファーだ。神が世界を調和するように設計するのは当然だから、利己心の追求によって秩序が生まれるのも自明だ。同じく理神論にもとづいて構築されたニュートン力学では、世界の動きはすべて物理的に決定されるので、自由意志の存在する余地はない。それをまねた新古典派経済学も、同じアポリアに陥ってしまうのだ。

これに対してマイケル・ポラニーは、選択の自由の起源をロックやヒュームの懐疑主義に求めた。それは、こうした決定論的な信仰が長期にわたる宗教戦争を引き起こしたことへの反省だった。しかし懐疑主義を徹底すると、それはすべての価値を否定するニヒリズムに到達する。ニーチェは「来るべき200年はニヒリズムの時代になる」と予言したが、このニヒリズムを克服すると称して登場したのが、ナチズムだった。

著者はこのように、従来の経済学がナイーブに想定する選択の自由という概念が、論理的な矛盾をはらんでいることを指摘し、これに対してポラニーの創発の概念を対置する。これは10年ぐらい前の「複雑系」ブームのとき流行した言葉だが、そのとき行なわれた研究は、単なるコンピュータ・シミュレーションだった。著者の『貨幣の複雑性』もそうだし、私も昔、そのまねごとをやったことがある。

しかし、こういう研究はすぐ壁にぶつかった。これは本来の意味での創発ではなく、チューリングマシンが複雑に動作しているだけなので、モデルさえ変えればどんな結果でも出る。その結論もゲーム理論でわかっていることを確認するだけで、プログラミング技術を競うお遊びになってしまった。

著者はポラニーに依拠して、このような客観的知識の延長上に「複雑性の科学」を築こうとするのはナンセンスだとし、暗黙知のような個人的知識の科学として経済学を構築しなおすべきだと論じる。しかし彼は、個人的知識を活用するために自由が必要だと主張したハイエクとは逆に、選択の自由という概念が近代西欧の幻想なのだから、『論語』で説かれているようなに倫理を求めるしかないと結論する。

本書の議論はここで終わっていて、そこから具体的にどういう「生きるための経済学」が出てくるのかわからないが、彼の指摘そのものは的を射ている。経済学が数学技術を競うお遊びを脱却して、真の実証科学として生まれ変わるには、自由という幻想を克服することも必要なのかもしれない。